池村(読み)いけむら

日本歴史地名大系 「池村」の解説

池村
いけむら

[現在地名]吉井町池・南陽台なんようだい

かぶら川が北西境から北境を湾曲して東流、東は小暮こぐれ村、西は吉井村、南は矢田やた村と接する。字御門みかど多胡たご碑が存し、「和名抄多胡郡大家おおやけ郷に比定される。永禄六年(一五六三)五月一〇日の北条氏康・氏政連署知行宛行状(安保文書)で「上州河北足利領内」として譲原ゆずりはら(現鬼石町)などとともに安保氏に宛行われた「池郷」は、列記された地名から当地と推定される。

寛永二年(一六二五)当村三四二石余が長谷川久三郎に与えられた(記録御用所本古文書)。寛文郷帳では田方二五〇石四斗余・畑方四四九石六斗余、幕府領。


池村
いけむら

[現在地名]伊東市池

天城あまぎ山の東麓、矢筈やはず(八一六メートル)大室おおむろ(五七九・六メートル)などに囲まれた山間の小盆地。東は富戸ふと村、西は鹿路庭ろくろば峠を越えて徳永とくなが(現中伊豆町)など。大室火山によって生じた池のほとりにできた集落(干拓により池は消滅)。初め幕府領、延宝九年(一六八一)相模小田原藩領、天明四年(一七八四)以降不明で、文化八年(一八一一)旗本鈴木領となり幕末に至る(「韮山町史」など)


池村
いけむら

[現在地名]高知市池

五台山ごだいさん村の東南にある。長岡郡に属し、「土佐州郡志」は「池之村」として「其土赤黒」と記し、村内小村として西之谷・東之谷・北浦・水分をあげる。村内の平地部は古くは海潮の浸す所であったが、海岸の隆起によって陸地化した。しかし南部の住吉すみよし池をはじめとして多くの池・沼が残り、村名もこれにちなむという。

戦国時代末期には長宗我部元親の庇護のもと池四郎左衛門がこの地を領していたという。天正一五年(一五八七)の池村地検帳は近世仁井田にいだ村の地を含んで記され、検地面積四二町一反余、うち田分三五町八反余、屋敷・畠分六町二反余。


池村
いけむら

[現在地名]東洋町野根のね

相間あいま村の南に位置し、西南はなか村。背後に山が迫る狭小な地で、野根郷に含まれ、江戸時代中期までは中村に属していたが、その後相間村と併せて一村扱いとなり分離、名本は当村にいた。村の東端に野根八幡宮が鎮座し、開発の古い地であるが、天正一七年(一五八九)の野禰村地検帳では池の地名はみえるが中村や野根浦分に含まれて扱われる。


池村
いけむら

[現在地名]明和町池村

伊勢参宮街道南方の村で、南に山地を控える。北は金剛坂こんごうさか村、東は有爾中うになか村、西はうえ村に接する。「神宮雑例集」「神鳳鈔」にみえる内宮領「池田御薗」が当村の前身とされる。天文一五年(一五四六)二月書写の神服部内戸納帳(「神服大神部・神部家文書」神宮文庫蔵)に「池村 太郎衛門」「池村 頼国寺」とみえている。近世は元和五年(一六一九)以降和歌山藩田丸領。


池村
いけむら

[現在地名]上越市池

上新町かみしんまち村の南東櫛池くしいけ川右岸に位置する。天和三年(一六八三)検地帳(明治大学刑事博物館蔵)によると村高一九一石五斗余(反別一五町八反余)、うち田方一七八石二斗余(一三町余)・畑方一三石三斗余(二町七反余)元禄郷帳によれば上新町村枝郷。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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