波照間村(読み)ぱちらーむら

日本歴史地名大系 「波照間村」の解説

波照間村
ぱちらーむら

[現在地名]竹富町波照間はてるま

波照間はてるま全島を村域とする。石垣島方言ではパティローマまたはパティローとよぶ。両島絵図帳に「はてるま島」(高四二七石余)のうちとして、おふか村(高五〇石余)、なしち村(高一三七石余)、たもお村(高七石余)山田村(高五五石余)、むかい村(高四三石余)、たかす村(高一一石余)、たはる村(高三七石余)、野川村(高二三石余)、「ミ(お)すく村」(高一五石余)、あかた村(高二八石余)平田ぴいさだ(高五石余)、なわんて村(高一一石余)の一二村がみえる。おふか村は現富嘉ふか集落、なしち村は現名石ないし集落、みおすく村はオヤケアカハチ事件で殺害された明宇底獅子嘉殿の屋敷があったといわれる現きた集落の美底みすく御嶽付近とされている。平田村は島南西部にあり、順治五年(一六四八)南方楽土「大波照間」への逃散事件があった(→波照間島。なわんて村は「あらんと村」の誤記とみられ、天啓六年(一六二六)八月二八日の新本目差職補任辞令書写(保多盛家文書)に「首里の御ミ事 やへままきりの あらぬとめさしハ 一人あらぬとのちくに たまわり申候」とある。ちなみに獅子嘉殿の次男は父の功により新本あらんとう与人となり(「球陽」尚真王二四年条)白郎原しいさばる御嶽の祭主となった。現みなみ集落には白郎原御嶽の遥拝御嶽である新本あらんとう御嶽がある。なお波照間島内には山田・赤田など両島絵図帳記載村名を姓とする旧家もある。一二村は崇禎元年(一六二八)の三間切制移行時には波照間村・平田村・あらんと村に編成され、宮良めーら間切に属した(八重山島年来記)。順治八年の人口は波照間村二九八人・平田村三一八人で、あらんと村の記載がなく(同書)、いずれかの村に併合されたとみられる。さらに康熙一七年(一六七八)平田村が波照間村に併合されて波照間島は一島一村となった(参遣状)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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