伊勢参宮街道
いせさんぐうかいどう
伊勢神宮へ参拝する人々の通る道はいろいろあるが、江戸時代以降は日永(現四日市市)の追分から内宮までが最も主要道路であった。しかし都が大和にあった古代には、おのずから伊賀を通って伊勢へ入る道であった。京都が都になると、勅使は鈴鹿峠を越えて神宮に向かった。参宮の道は時代とともに移り変っている。
〔古代〕
皇居が大和の南部にある間は現宇陀郡榛原の辺りから名張へ出、青山峠を越えて伊勢へ入るルートが最も一般的であったと思われる(→初瀬表街道)。平安京に都が移ってもまだしばらくはこの道が利用されたと思われるが、仁和二年(八八六)鈴鹿峠の道が開かれ、それが東海道ということになると、都から参宮の道もこれが公道になった。これを受けて伊勢国内には、鈴鹿駅家から南下して志摩国に至る公道が設定され、そこに市村・飯高・度会の駅家が設けられた(延喜式)。鈴鹿駅家を現在の鈴鹿郡関町に比定するのは異論のないところであるが、市村駅家については、「市師(壱志)」の誤りではないかなど諸説があるものの、おそらく安濃郡殿村(現津市)であろう。飯高駅家は現松阪市北方の海岸部、町平尾町付近とするのが一般的である。度会駅家については、現在の度会郡小俣町にあった離宮院に比定するのが通説であるが、宮川を東に渡って外宮前辺りに比定する説もある。
伊勢斎王の場合は道中に頓宮(仮宮殿)を設営し、数百人の従者をひきつれて群行することになっているが、頓宮の設営場所は「延喜式」によって伊勢国内では鈴鹿・壱志と定められている。公卿勅使も壱志を利用することが多く、寛弘二年(一〇〇五)公卿勅使参宮の一員であった藤原行成は「権記」一二月一三日条に「辰剋、自関戸出、於鈴鹿河祓、経奄芸安濃郡、申剋着壱志郡駅家」と記している。その位置は現在の一志郡三雲村曾原付近とするのが妥当と思われるが、これが「延喜式」に記された駅制以後に新設された駅家なのか、あるいは公卿勅使と斎王参入のために別に設定されていたものなのかについては明らかになっていない。公卿勅使たちの参向する道は「西宮記」「江家次第」「伊勢勅使部類記」などによると、鈴鹿駅を出、古厩(現鈴鹿郡関町)を経て椋本(現安芸郡芸濃町)から安濃川沿いに南下し、殿村辺りから神戸・藤方(現津市)の村を通り雲出川を渡って一志駅家へ入り、ここで宿泊するケースが多い。翌朝、今の三渡川と考えられる保曾久美南江を渡り、飯高駅家を経て海岸に沿って、神郡との境である下樋小川に至る。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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