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洪承疇 こうしょうちゅうHong Cheng-chou; Hung Ch`êng-ch`ou

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

洪承疇
こうしょうちゅう
Hong Cheng-chou; Hung Ch`êng-ch`ou

[生]万暦21(1593)
[没]康煕4(1665)
中国,明末清初の政治家。福建省南安県の人。字は彦演。万暦 44 (1616) 年の進士。各地の地方官を歴任したのち崇禎4 (31) 年には陝西三辺総督となり,李自成の乱討伐に功を立てた。次いで薊遼 (けいりょう) 総督となり,清軍と松山で戦ったが捕えられ,降伏して 鑲黄旗 (じょうこうき) 漢軍に編入された。のち大学士となり,江南の経略や残明勢力の討伐に大功を立て,呉三桂らとともに清朝の中国平定に協力。

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世界大百科事典 第2版の解説

こうしょうちゅう【洪承疇 Hóng Chéng chóu】

1593‐1665
中国,明末・清初の官僚。福建省南安県の人。万暦44年(1616)の進士で,34年(崇禎7)陝西三辺総督となり,李自成の乱の鎮圧に活躍し,39年薊遼総督となったが,41年遼西の松山で清軍に敗れ,清に投降した。44年(順治1)清が北京に遷都すると,翌年招撫江南として南京に駐して糧食の調達に任じた。ついで経略大学士の称号を与えられ,明の残存勢力の平定に大きな功績を挙げ,61年引退した。【神田 信夫

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

洪承疇
こうしょうちゅう
(1593―1665)

中国、明(みん)末清(しん)初の官僚。福建南安県の人。字(あざな)は彦演(げんえん)、号は亨九(こうきゅう)。諡(おくりな)は文襄(ぶんじょう)。1616年の進士。明末、李自成(りじせい)の乱の討伐に功をたてたのち、薊遼(けいりょう)総督として対清防衛にあたったが、42年松山(しょうざん)で清軍に捕らえられ投降した。44年清の入関後、大学士となり、45~48年南京(ナンキン)で江南平定の任にあたり、53~60年には華南で残明勢力征討を指揮した。清朝の満州人首脳部に中国事情を進言して中国統一に資するところが大きく、その間しばしば反清的意図を疑われたものの慎重な対処によって事なきをえ、61年隠退を許された。[岸本美緒]

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