李自成の乱(読み)りじせいのらん(その他表記)Li Zi-cheng; Li Tzǔ-ch`êng

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「李自成の乱」の意味・わかりやすい解説

李自成の乱
りじせいのらん
Li Zi-cheng; Li Tzǔ-ch`êng

中国,明末の農民反乱明朝末期,王朝の政治は腐敗し,軍事費の増加などによる過酷な収奪人民は苦しんだが,崇禎1 (1628) 年陝西地方に大飢饉が起ると飢民は暴動を起し,やがて明朝に反抗する農民反乱に発展した。当時,王朝は財政窮迫の打開のため駅站 (えきたん) を廃止したが,失業した駅卒や,また軍糧を支給されない兵士もこれに参加し,反乱の規模は急速に拡大した。初期の指導者は王嘉胤高迎祥らで,衆は3万~4万を数え,山西,河南方面へ進出した。李自成は陝西延安のやや富裕な農民の子で,家が没落し,駅卒を失業して兵士となっていたが,飢兵を率いて反乱に加わった。やがて頭角を現し,みずから闖 (ちん) 王と称し各地を転戦し,同 14年には洛陽を占領して王族福王を殺し,その財貨を人民に分配した。当時彼の集団は軍規が厳正で,田を均 (ひと) しくし,租税を撤廃するというスローガンを掲げたので各地で絶大な支持を受けた。同 17年西安を占領すると,ここを都とし国号を大順と定め,ただちに兵を派遣して北京に迫った。当時明軍の主力満州族侵入にそなえて山海関にあったので北京はたちまち陥落し,崇禎帝は煤山に登って自殺,明朝は滅亡した。李自成はここで官制を改める一方,山海関にあった明将呉三桂討伐を実施したが,清の援助を受けた呉三桂軍に大敗し,北京を放棄して西安へ退いた。しかし清軍の追撃を支えきれず湖北方面へ逃れ,その山中で自殺した。残存勢力はその後も長く清朝に反抗を続けた。

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