洪景来の反乱(読み)こうけいらいのはんらん

改訂新版 世界大百科事典 「洪景来の反乱」の意味・わかりやすい解説

洪景来の反乱 (こうけいらいのはんらん)

朝鮮の李朝末期,1812年の民衆反乱。平安道農民戦争とも呼ぶ。洪景来は平安道竜岡郡の没落した両班(ヤンバン)の出身で,その主謀者の一人。地師(葬地を占う)を業とし,各地を放浪しながら同志を糾合して蜂起の準備に10年近くをかけた。平安道出身者に対する差別の打破,幼王の外戚や姻戚らによる専権政治反対を内容とする檄文を発し,中央政府の打倒を呼びかけた。イデオロギー的には,済世の聖人鄭始守という架空の人物が,明の世臣遺孫の鉄騎10万を率いて東国(朝鮮)の粛正を行うという空想的なものであった。しかし地方差別に不満を抱く在地の両班層や郷吏,郷任などの中間支配層,さらには私商や貧農,都市貧民層までもまきこんだ民衆反乱となった。反乱は陰暦で前年の12月18日に始まり,この年の4月19日まで続いたが,義州や安州などの拠点都市の攻略失敗,農民軍指導部が小農民層の組織に失敗したことなどにより,平安道各地の農民軍は旧暦の1月10日ころまでに鎮圧された。指導部は定州に籠城する方針をとり,胡軍(中国)が救援に来るなどという流言を流しながら8000名に及ぶ政府軍の包囲に耐えた。政府軍の定州攻撃は,攻城具や火器,爆薬を使用し,地下道による城壁爆破をもって行われた。公式には,生捕りの男女2983名中,10歳以上の男子1917名の斬首と主謀者の処刑によって終結した。しかし民衆の間には洪景来生存の噂がたえず,19世紀後半の民乱壬戌(じんじゅつ)民乱など)にうけつがれることになる。
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世界大百科事典(旧版)内の洪景来の反乱の言及

【李朝】より

…また,封建的な王朝権力は,19世紀に入ると,王妃一族による権力の独占と腐敗(勢道政治)のもとで,三政(田税,軍役,還穀)などによる民衆からの収奪をいっそう強めていった。その矛盾は1812年に洪景来の指導する平安道の大農民反乱(洪景来の反乱)となって爆発し,やがて朝鮮の近代を迎えることになる。
[末期――近代へ]
 この時期(1860‐1910)は朝鮮近代に属し,自主的な近代的変革やさまざまな民族運動が展開される一方,朝鮮が日本の半植民地とされ,1910年,ついに植民地とされる時期である。…

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