浜田町(読み)はまだまち

日本歴史地名大系 「浜田町」の解説

浜田町
はまだまち

[現在地名]小松市浜田町・浜田町地方はまだまちじがた桜木町さくらぎちよう

地子じし町川端から九竜橋くりようばし川北側に沿って西に延びる通りで、北は竹島たけしま、南はなか町地方、かけはし川の西に浜田地方がある。長さ四町・幅三間(皇国地誌)。天正一三年(一五八五)二月九日の村上頼勝寄進状(北徴遺文)によれば、小松城主村上義明(頼勝)本蓮ほんれん寺に田五反と畑一反を与えている。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では内浜田村と浜田村が並記され、内浜田村の高六一石・免五ツ、浜田村の高二四石・免四ツ、小物成として板船櫂役七七匁余(出来)がある(三箇国高物成帳)

浜田町
はまだちよう

[現在地名]岡山市中央町ちゆうおうちよう

外堀の西側で、大雲寺だいうんじ町口門から庭瀬にわせ口へ通ずる道の北側にある。この道から仁王におう町に至る南北の道を挟む両側町。東は尾上おのうえ報恩ほうおん寺・大雲寺町、南は道を隔て大雲寺町・かわら町、西は瓦町景福けいふく寺と武家屋敷、北は高砂たかさご町。寛永城下絵図では「六兵衛町」、慶安城下絵図も同じで、延宝四年(一六七六)浜田町と改名された(「諸用留」国富文書)。「吉備温故秘録」によれば、松尾六兵衛という富者が当町に初めてきて借屋までも多く建て、繁盛したため六兵衛町と称し、近年まで子孫松屋と号して居住していたという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報