小松町
こまつまち
梯川下流左岸にあり、町北西端にある城の北から西を梯川が曲流する。北陸街道がほぼ南から北へ縦断し、それらを基軸として城下町が構成されている。北と西を梯川により画され、北東端で梯川から取水した川が町の東端を画している。中央を東西に九竜橋川が流れ、ここより北を橋北、南を橋南とよぶ。町の東端を画した川が町南端で他の川を合して西に折れ、猫橋川となって梯川に流入する。猫橋川までがもともとの小松町で、その南はかつての本折村で、明治初年正式に小松町に編入された。地名の由来は、平安時代末期に小松内府平重盛の所領であったことによるという説があり、現在東町にある浄土宗法界寺はもと真言宗で小松山と号し、重盛の建立であるという(能美郡誌)。一方花山法皇が園町付近に別荘を作り、数多くの小松を植えたためとする説もある(小松市史)。
明応三年(一四九四)一〇月越前の朝倉貞高と対立する越前「甲斐牢人方」の加賀一向一揆勢は「小松・本織」から江沼郡の所々に陣を構え、「先陣後陣連間八里計」という態勢で越前侵入をうかがっている(「大乗院寺社雑事記」同月一五日条)。赤尾道宗(永正一三年没)書写による蓮如の明応二年八月二八日の御文の奥書によれば、この正文は有力門徒と思われる「加州小松了珎」のもとに保管されているとある。「朝倉始末記」によれば、享禄四年(一五三一)一向一揆の賀州三ヵ寺派と超勝寺・本覚寺派との内紛(享禄の錯乱)で、三ヵ寺派を支援する朝倉教景の越前退却とともに越前へ亡命した三ヵ寺派の牢人のなかに「小松ノ道秀」の名があり、これも当地出身の有力門徒とみられる。「天文日記」天文五年(一五三六)一〇月一四日条によれば、天台妙法院門跡が本願寺に、「南白江、嶋田内経田、野代内保司名、小松村、押野庄内久安名」などの所領について本役年貢納入の口添えを求め、同年閏一〇月二一日条では京都の安禅寺(現京都市上京区)も「南白江新庄内小松村地頭公文所々散在」など所領の年貢納入の口添えを求めてきたため、本願寺証如は奉書を下している。また同九年五月には山城石清水八幡宮の別当善法寺より小松八郎左衛門闕所分に含まれる能美村・小松村、長野村(現寺井町)について本願寺へ口添えの依頼があり、証如は奉書を下している(同日記同月一五日条)。これらのことから、戦国期の小松村は妙法院門跡領南白江庄(新庄)に属し、地頭・公文両職は安禅寺が知行していたが、小松八郎左衛門闕所分については石清水八幡宮領となっていたことがわかる。
小松町
こまつちよう
面積:七六・五九平方キロ
周桑郡の東部に位置する。東は西条市、南は上浮穴郡面河村、西は丹原町、北は東予市に接する。大部分は石鎚山の西北斜面を形成する山間部で占められ、町の北端を東北に流れる中山川の南側に細長い山麓平野がある。国道一一号が山麓を走り、国鉄予讃本線が町の東北部を走る。
周布郡山麓原始文化圏の一環ともいうべき遺跡などが多く、仏心寺遺跡を中心に縄文時代遺物が出土し、弥生時代から古墳時代にかけて、舟山古墳群・大日裏山古墳群・大頭古墳群などがある。
小松町
こまつちよう
東山区大和大路通四条下ル四丁目
建仁寺町通に位置。明治二年(一八六九)、建仁寺境内一円を当町に編入して広大な町域となったが、本来は、東は建仁寺境内まで、南は弓矢町、西は下柳町、北は博多町に至る間。
宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」に「此町西側に蛭子社あり。御神事九月十六日。又十月二十日蛭子講。参詣夥し。東側に建仁寺南の門有。此町南の辻は松原通也」と概略を記す。いわゆる建仁寺町の南端を占め、建仁寺町四町目にもあたったが、地図類では同三町目に含めた表示が通例で、四町目の称はみえない。
小松町
こまつちよう
[現在地名]中央区日本橋二丁目
佐内町の南、通二丁目新道の東に位置する片側町で、東は本材木町二丁目・同三丁目。元禄三年(一六九〇)楓川の入堀が埋立てられた跡地に起立された(沿革図書)。享保一〇年(一七二五)の分間江戸大絵図に「コマツ丁」と出ている。安永三年小間附町鑑によれば京間四二間一尺八寸八分のうち二六間一尺八寸は国役を勤め、一六間八分は公役金を納めた。
小松町
こまつちよう
[現在地名]江東区佐賀一丁目
松賀町続拝借屋敷の南に掘割を隔てて位置する町屋。東は油堀の枝川を隔てて伊沢町、西は上総大多喜藩松平(大河内)家下屋敷など、南は信濃松代藩真田家下屋敷など。元木場二一ヵ町の一。深川小松町とも称した。文政町方書上によると、元禄一四年(一七〇一)町並家作が許可され正徳三年(一七一三)町奉行支配となる。町内総間数は南北の表が京間四三間余・裏幅四四間余、東西奥行二〇間。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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