日本歴史地名大系 「浮囚郷」の解説 浮囚郷ふしゆうごう 群馬県:上野国多胡郡浮囚郷「和名抄」高山寺本は記載を欠く。東急本は武美(むみ)郷の次に「浮囚」郷を載せ、訓を欠く。多胡郡が六郷三〇〇戸で建置された以後に設けられたものである。上野国においても碓氷(うすい)郡・緑野(みどの)郡に浮囚郷がある。郷名の「浮」「俘」に異同がみられる。「日本地理志料」は「浮」は「俘」とし、「布之由」と訓じ、「衣比須」の意とする。「日本書紀」や「続日本紀」によると、上毛野君が蝦夷征討の将軍として出兵したり、上毛野朝臣が陸奥守に任ぜられており、上野国から蝦夷鎮撫の兵が徴発されている。討伐軍によって強制的に移送された蝦夷集団が配置された郷である。 浮囚郷ふしゆうごう 群馬県:上野国緑野郡浮囚郷「和名抄」高山寺本は記載を欠く。東急本は土師(はにし)郷の次に「浮囚」と記し、訓を欠く。「日本地理志料」は「浮」は「俘」であるとして「布之由」と訓じ、「衣比須」の意とする。浮囚郷とは蝦夷の国内化のために移住配置された郷のことであり、上野国では碓氷(うすい)郡・多胡(たご)郡にもみえる。「日本後紀」弘仁三年(八一二)四月一三日条に「出羽国田夷置井出公呰麻呂等十五人賜上毛野緑野直」とある。 浮囚郷ふしゆうごう 山口県:周防国吉敷郡浮囚郷「和名抄」高山寺本にはみえず、刊本は「浮囚」と記し、訓を欠く。同名の郷は上野国の碓氷(うすい)郡・多胡(たご)郡・緑野(みとの)郡の三郡にもみられるが、いずれも刊本に記載されていて、訓はない。「大日本地名辞書」は「えみし」と読んでいるが、「一説椹野の椹はフシウの訛といへり」とも記している。現在後説が定説になっている。郷名の由来については、上古、東北地方への侵略が進むに従い、俘囚となった蝦夷を多く諸国に配置して、地方の開拓に当たらせたという記紀史料に基づき、吉敷郡の浮囚集落もまた椹野(ふしの)川流域に置かれて、開拓に従事させたことによるものであろうと推測しているが(防長地名淵鑑、山口県文化史)、確証はない。 浮囚郷ふしゆうごう 群馬県:上野国碓氷郡浮囚郷「和名抄」高山寺本には記載がなく、東急本は「浮囚」と記し訓を欠く。八世紀前半頃から大量の蝦夷集団が内地に強制的に移送され、各国に分散収容された村の称である。郷域について「日本地理志料」は、郡の東北に上・中・下里見(しもさとみ)村があり、室田(むろだ)・宮沢(みやざわ)・十文字(じゆうもんじ)、水沼(みずぬま)・三(さん)ノ倉(くら)にわたる地とし、現群馬郡榛名(はるな)町から同郡倉淵(くらぶち)村付近に想定しているが確証なく、比定地は未定である。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by