周防国(読み)スオウノクニ

デジタル大辞泉 「周防国」の意味・読み・例文・類語

すおう‐の‐くに〔すはう‐〕【周防国】

周防

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日本歴史地名大系 「周防国」の解説

周防国
すおうのくに

古代

〔国の成立〕

周防国は古くは「周芳」(日本書紀)と書いた。これを「すは」と読むか、「すはう」と読むのか、定説はない。「周防」の初出は「続日本紀」文武天皇元年閏一二月七日条の「播磨・備前・備中・淡路・周防・阿波・讃岐・伊予等国飢、賑給之、又勿負税」の記事である。「和名抄」刊本(慶安元年板)ではこれを「すはう」と読んでいる。名義は不明である。

「古事記」神代記には天津日子根命を周芳国造などの祖とし、「国造本紀」には周防国造のほかに大嶋国造・波久岐国造・都怒国造が置かれたことがみえる。大嶋は大島おおしま郡、周防は熊毛くまげ玖珂くが両郡、都怒は都濃つの郡の各地域に比定される。波久岐についてはヨシキの書き誤りとする説もあるが、反論もあり、その地域は未詳である。このほか「日本書紀」神功皇后摂政前紀(仲哀天皇九年一二月)に「一に云はく、(中略)是に神有して、沙麼県主祖内避高国避高松屋種に託りて、天皇に誨へて曰はく」とあり、佐波地方に「県」が置かれていたことが知られる。

土着の国造のうち、最も強勢を誇っていたのは周防国造であった。その本貫の地は島田しまた川流域の現光市小周防こずおう付近と推定されている。当初は直姓が与えられていたと考えられるが、大化改新以後は「凡直」となり、奈良―平安時代にも周防凡直の名で周防の全域に勢力をもっていたようである。「続日本紀」宝亀元年(七七〇)三月二〇日条に「外正八位下周防凡直葦原献銭百万、塩三千顆、授外従五位上」とあり、同一〇年六月二三日条にも「外従五位上周防凡直葦原之賤男公」の名がみえる。また延喜八年(九〇八)の周防国玖珂郡玖珂郷戸籍(石山寺所蔵文書)にも周防凡直姓を有する人名が多くある。

大化改新は国造制を否定しながらも、直ちにこれを改変せず、旧支配勢力を利用しつつ、一方では国造支配下の一部をさいて「評」を設け、かつ国造制に対する統轄の官職として総領が派遣された。「日本書紀」天武天皇一四年一一月二日条に「儲用鉄一万斤送於周芳総令所」とみえ、総令所を置いて周防国造管下およびその隣接の地域を統轄させた。その後、浄御原令の施行で国造支配のクニが全面的に廃止され、新たに国・郡制が成立したといわれる。周防の国名は、古くから中央にその名を知られていた周防国造のクニの名をもって、一国の汎称としたのである。

国府は沙麼県(現防府市)に置かれた。初めは周防国造の故地に置かれたのではないかともいわれるが、他の例からみるとその可能性は少なく、当初から佐波さば郡に置かれたと考えられる。

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改訂新版 世界大百科事典 「周防国」の意味・わかりやすい解説

周防国 (すおうのくに)

旧国名。防州。現在の山口県東部地方。

山陽道に属する上国(《延喜式》)。793-849年(延暦12-嘉祥2)の間に中国から上国に昇格した。《和名抄》は〈スハウ〉とよむ。もと〈周芳〉につくり,大宝令施行後〈周防〉に一定した。国司管治の国としては《日本書紀》天武10年(681)条に初見する。大島,熊毛(くまけ),都濃(つの),佐波(さば),吉敷(よしき)の5郡に721年(養老5)に熊毛郡をわけて玖珂(くか)郡を設置して6郡となった。国府は大和朝廷の九州経略の拠点となった沙麼(さば)地方,佐波川下流域の佐波郡に所在し(現,防府市国衙),発掘調査と現存地割から,8町四方の規模であることが確認された。府域内に国衙,国庁,朱雀,船所,細工所,市田,大領田などの地名が残存する。738年(天平10)の〈周防国正税帳〉によると,正税198万9200束余,《和名抄》の田積7834町3反269歩。国分寺は国府の西北方に現存し,惣社金切社(佐波神社)は府域西北隅に接して,一宮の玉祖(たまのや)神社は佐波川下流右岸に鎮座する。

 山陽官道が内海寄りを縦走し,安芸国から石国(いわくに),野口,周防,生屋(いくのや),平野,勝間,八千(やち),賀宝(かほ)の各駅家を結んで長門国に入った。駅館は外国使の通行に備えて瓦葺き,粉壁とし,駅馬は各駅25疋で,807年(大同2)以降20疋に減じた。825年(天長2)長門国から吉敷郡に鋳銭司が移され,以後少なくとも11世紀初めまで富寿神宝~乾元大宝の官銭が鋳造され,その間940年(天慶3)藤原純友の徒に襲撃され焼失したことがある。貢納物として調に綿・塩・短席,庸に綿・米,中男作物に紙・海石榴油・煮塩年魚・鯖・比志古鰯などがあり(《延喜式》),調塩は平城宮木簡,周防鯖は《新猿楽記》からも知られる。908年(延喜8)〈周防国玖珂郡玖珂郷戸籍〉(大津市石山寺所蔵)は国造後裔の周防凡直の戸をふくむ15戸の家族構成を伝えて貴重である。1137年(保延3)周防国庁宣に留守所がみえ,他方,在庁官人として大内氏の前身である多々良氏のほか,日置氏,矢田部氏,土師(はじ)氏賀陽(かや)氏,中原氏などが登場する。
執筆者:

大内氏については,平氏全盛のころ大内盛房など一族4名が東国に流され,1178年(治承2)召還されたことがわかるが,内乱期の動向は不明である。他の氏族では,源平争乱期に入って一ノ谷合戦後,山陽道を下った平知盛が大島に拠ったときは屋代源三等が平家方につき,これを追って源範頼が西下したときは内藤盛家が遠石荘で源軍と抗戦した。いっぽう宇佐木(うさなき)の上七遠隆は範頼に兵糧を献じ,翌年屋島を攻略した源義経が大島津に至ると,周防国船所五郎正利が数十艘の兵船を義経に献じた。このほか壇ノ浦の戦では平家方の岩国兼秀・兼末兄弟が生捕りにされた等のことが知られる。

源平争乱の中での武士の去就にしたがい,乱後の在地勢力の分布に移動が生じた。新たに鎌倉幕府から地頭に補任された者には,島末(しますえ)荘・安下(あげ)荘・屋代荘等の大江広元,久賀保・日前(ひくま)保・由良保の江所高信,小周防保・勝間村の内藤盛家,得善(とくぜん)保・末武保の筑前太郎家重,末武・久米方面の内藤盛経,三奈木守直,久米国真,仁保(にほ)荘の平子(たいらこ)重経,椹野(ふしの)荘の白松資綱などがある。いっぽう1186年(文治2)3月周防国は東大寺造営料国とされ,大勧進重源(ちようげん)に国務管理がゆだねられた。以後歴代の大勧進は名国司(みようこくし)と別に国司の任務をつとめ,国司上人と称せられた。重源は同年4月には工匠等を率いて周防に入り,佐波川上流域の杣山に入って用材の伐採・運搬等を監督し,造営の促進につとめた。この間,地頭職を得て入国した武士たちや,在庁の有力者大内弘盛等による妨害に悩まされたが,95年(建久6)には東大寺供養会を修することができた。重源は国府北東の牟礼山山麓に阿弥陀寺を建立し,その住持は大勧進が兼ね在庁官人諸氏をその檀越とし,在庁官人結合の精神的紐帯たらしめることとした。

 重源没後は栄西(えいさい)が大勧進となったが,1209年(承元3)周防国は法勝寺九重塔婆造営料国にあてられ,栄西はそのまま周防を管した。その後同国は感神院造営料国を経て31年(寛喜3)東大寺造営料国に復し,大勧進行勇が国務を管理することとなり,以後大勧進の派遣する目代・小目代等が,在庁官人を指揮して実務にあたる体制がつづいた。もっとも,在庁官人の中には大内氏のごとき有力者がおり,在庁を構成する〈所〉の兄部(このこうべ)の多くを一族で占めて卓越した地位を築き,他方御家人として六波羅評定衆に任じていたので,大勧進の国務管理は容易ではなかった。モンゴル襲来の際は,75年(建治1)周防は安芸,備後とともに長門警固にあてられ,弘安の役には大内弘貞等の出陣,戦後には平子重有の異国警固番役勤仕が知られる。大勧進の支配はこのモンゴル襲来後のころから紛糾が続き,鎌倉末には深刻な事態を迎えた。元弘の乱(1331)では,1276年以来周防守護を兼ねてきた長門探題(当時北条時直)による伊予への出征に,右田,深野,柳井などの諸氏が従った。

1333年(元弘3)公家一統の世となると,周防は一時大内裏(だいだいり)造営料国に寄せられたが,新政の崩壊に伴い旧に復した。また平子重嗣らの仁保荘地頭職が33年収公されたが,翌年には再安堵された。35年(建武2)朝廷が差遣した足利尊氏征討軍には大内弘直が参加したが,翌年正月京都に入った尊氏方には弘直を除く大内氏一族が加わっていた。その後尊氏の西走途次での諸将配置では,周防には大島義政を大将,大内長弘を守護と定めている。また懐良(かねよし)親王の忽那(くつな)島滞在中には,周防大島の島末氏等はこれに忠勤を励んだ。49年(正平4・貞和5)足利直冬が長門探題として下向すると内藤盛信は尾道に馳せ参じ,翌年尊氏の差遣した高師泰が石見に入ると,大内弘世・弘員が直冬方としてこれを討った。ついで観応の擾乱(じようらん)のころには大内氏本宗の弘世が直冬陣営に属して,尊氏・義詮陣営に属する長弘の子弘直と対立し,その本拠地鷲頭(わしず)方面に攻撃を加え,54年(正平9・文和3)ころには南朝方として大内氏一族の統率権を握った。その後弘世は幕府方に転じて防・長両国および石見の守護職を得た(ただし石見はのち没収)。

 その子義弘は89年(元中6・康応1)足利義満の西下を防府で迎え,明徳の乱(1391)の功賞を得て防・長・豊前・石・泉・紀6州の守護となった。しかしやがて義満の挑発をうけて応永の乱(1399)を起こし敗死した。ともに堺に籠城した弟弘茂は乱後幕府に降り,防長の守護職を安堵されて帰国した。留守を守っていた大内盛見はこれを拒絶していったん豊後に避けたのち,1401年(応永8)末長門府中に上陸して弘茂を倒し,翌年正月山口に帰り,さらに幕府の擁立した介入道道通をも倒した。このため幕府も盛見の家督を認めざるをえず,04年ころ防長の守護職を安堵し,ついで筑前,豊前をも与えて九州経営の重責を負わせた。盛見が31年(永享3)筑前深江に戦死すると家督をめぐって持世・持盛兄弟による永享の内訌が生じたが,持世が勝利をおさめ盛見時代の4国を保持した。以後歴代にわたって九州の平定に功があったが,政弘の代には応仁・文明の乱(1467-77)および乱後の幕府による六角氏征伐に協力して中央での大内氏の地位を高め,義興も前将軍義稙を擁して1508年(永正5)上京し,18年まで在京して幕府の実権を握った。義隆の代に至り51年(天文20)陶隆房(晴賢)の反乱にあい,深川大寧寺で自刃し,隆房が義長を迎えて実権を握ったが,55年(弘治1)厳島の戦に晴賢が敗死し,義長も毛利軍に追われて長府で自刃し,大内氏は滅亡した。

南北朝内乱期,幕府は南軍の強固な九州を制圧するため大内氏の協力を必要とし,領国内所領に対する自由裁量を大内氏に許したが,大勢が定まった14世紀末のころ,本領主への返還が行われ,周防国衙領についても義弘は1399年国衙領法度を定めて保護の態度を明示した。しかし盛見は守護職権を拡大して国内諸所領に段銭・人足役を賦課し,教弘も〈十分二〉なる賦課を行った。国衙領については幕府の免除特権を得た事実はあるが,それも政弘の代までに大内氏の段銭徴収権が確立され,応仁・文明の乱には陣夫徴発,公用米借用,半済などが行われ,1490年には尊光を国衙の目代に据え,国衙領の領主権を東大寺から奪った。東大寺の訴により1509年還付されはするが,実質的には各級武士の所領と化していた。大内氏が大内村から山口に居館を移したのは弘世の代とされる。観応の段階での権力構成は同族結合という鎌倉期的様相を脱していないが,国人出身の直臣(じきしん)を取り立てて権力の一翼とし,同族および有力直臣を管国の守護代に任じて地域支配体制を整備するとともに,政庁の奉行人・評定衆を構成したが,それにつれて山口は領国の中心として発達し,歴代の京都との接触と外国貿易の影響により多彩な大内文化を作り上げた。

大内氏滅亡後防長をはじめ中国地方をほぼ全域にわたって支配下におさめた毛利氏は,一時的に毛利氏五人奉行に旧大内氏奉行人若干名を加えた奉行人組織により戦後処理を行い,大内時代の地域支配機構たる郡司制を継承した。輝元時代にはその上に吉敷,佐波2郡と長門を管轄する山口奉行と,周防4郡(大島,玖珂,熊毛,都濃)段銭奉行とを置き支配体制を整備した。
執筆者:

1600年(慶長5)関ヶ原の戦に敗れた毛利氏は,旧領8ヵ国のうち6ヵ国を没収され,周防・長門両国に減封された。10年の検地帳によると,周防国は総石高29万6040石余,田1万8371町余,畠8025町余,百姓屋敷2万8011軒,市屋敷1785軒,町屋敷2816軒,浦屋敷1314軒であった。毛利輝元は1600年に吉川(きつかわ)広家へ周防国のうち玖珂郡で高3万石を分知して岩国藩をたてさせ,17年(元和3)に次男就隆へ都濃郡と熊毛郡で高3万1400余石を与えた。毛利就隆は,はじめ居館を都濃郡下松に設けたが,50年(慶安3)に同郡野上に移し,地名を徳山と改めた(徳山藩)。長州藩は郷村支配の行政単位として〈宰判〉を設け,周防国では大島,奥山代,前山代,上関,熊毛,都濃,三田尻,徳地,山口,小郡の10宰判を置いた。

 両山代,徳地宰判は楮(こうぞ)の産地であり,多量の和紙を製造した。長州藩は山代地方の農民に楮を栽培させて半紙をすかせ,それを藩が年貢の代りに収納し,大坂で売って大きな収入をえた(請紙制)。瀬戸内沿岸は遠浅で天候に恵まれていたため,多くの塩田が造成された。93年(元禄6)の小松浜(周防大島町),99年の三田尻古浜(防府市),1704年(宝永1)の平生浜(平生町)などをはじめとし,近世中期には下松,徳山,富田,福川,三田尻,小郡などで多くの塩田が開発された。この結果,周防国は播磨国に次ぐ塩の生産地となった。農村では16年(享保1)ころから木綿織が盛んとなり,紙,塩とならんで重要な産物となった。岩国縮は49年(寛延2)に丹後国から縮緬技術をもちかえり,改良を加えたものであるが,1804年(文化1)ころに熊毛郡伊保庄村の女性(於繁)が案出した絣織(柳井縞)とともに,周防国の代表的な木綿織となった。岩国縮,柳井縞,三田尻縞は,大坂や瀬戸内各地で大量に販売された。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「周防国」の意味・わかりやすい解説

周防国
すおうのくに

山口県の東部に大化改新以後設置された行政区画。この地域は大化以前は周芳(すほう)と記され、周防の字は『続日本紀(しょくにほんぎ)』の697年(文武天皇1)の記事が初見である。この周防の国名は、古くから中央にその名が知られていた周防国造(くにのみやつこ)の名をとったものといわれている。『和名抄(わみょうしょう)』には、同国内に大島、玖珂(くが)、熊毛(くまげ)、都濃(つの)、佐波(さば)、吉敷(よしき)の6郡名がみえ、『延喜式(えんぎしき)』には吉敷、玖珂が中郡、佐波、熊毛、都濃が下郡、大島が小郡と定められている。この郡名は、郡内地域の変更はあるものの、現在までそのまま踏襲されている。国内山陽道の駅数は、『類聚三代格(るいじゅうさんだいきゃく)』によれば10駅であるが、『延喜式』では8駅となっている。

 中世になると、源平の争乱で焼失した奈良東大寺再建のため、周防国は大仏造営のための料国となった。このため、俊乗房重源(ちょうげん)が大勧進となり当国へ下向した。重源は国衙(こくが)の支配機構を整備し、東大寺再建のために材木を伐採して奈良へ送った。重源は下向後10年、1195年(建久6)に東大寺再建の大任を果たした。この後、国衙在庁官人の一人であった大内氏が勢力を増大した。室町時代に入ると、大内氏は防長両国を支配下に置き、山口を城下町とした。さらに、守護大名として室町幕府のなかでも重きをなし、山口は西の京として繁栄した。大内氏は1551年(天文20)家臣陶晴賢(すえはるかた)に滅ぼされ、晴賢も55年(弘治1)毛利元就(もうりもとなり)に敗れて、周防は毛利氏の支配下に入る。

 近世に入ると、1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いで敗れた毛利輝元(てるもと)が、中国8か国から防長2か国に減封されて入部した。居城も、広島から萩(はぎ)へ移された。輝元は1610年に検地を実施したが、周防国の石高(こくだか)は29万6040石余であった。輝元は国内東部岩国地方3万7000石弱を吉川広家(きっかわひろいえ)に与え、南部徳山地方2万石を次男就隆(なりたか)に分与した。残りを本藩領とし、大島、奥山代(おくやましろ)、前山代、熊毛、上関(かみのせき)、都濃、徳地(とくぢ)、三田尻(みたじり)、山口、小郡(おごおり)の10宰判(さいばん)を置いた。宰判とは代官の支配地域で、この宰判を単位として地方支配機構を確立した。

 明治維新の結果、1871年(明治4)廃藩置県が実施され、岩国地方が岩国県、残りが山口県となったが、同年末に周防・長門(ながと)両国は山口県に統一された。89年山口、柳井津(やないづ)、岩国に町制が敷かれ、残り131村に村制が敷かれた。96年郡制が施行され、国内6郡に郡会と郡役所が設置された。2006年(平成18)10月現在、13市9町である。

[広田暢久]

『長州藩編『防長風土注進案』全395巻、刊本22冊(1842~46成、1960~66・山口県文書館)』


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「周防国」の意味・わかりやすい解説

周防国
すおうのくに

現在の山口県東部。山陽道の一国。上国。『日本書紀』には「周芳」と書かれており,雄略紀には角 (つの) 国,神功紀には沙麼県主 (さばのあがたぬし) とある。『旧事本紀』には大嶋国造,波久岐 (はくき) 国造,周防国造,都怒 (つの) 国造が記されている。国府,国分寺ともに防府市大字東佐波令にあった。天平 10 (738) 年の『周防国正税帳』が一部『正倉院文書』として現存する。『延喜式』には大嶋,玖珂,熊毛,都濃,佐波,吉敷の6郡を載せているが,このうち玖珂郡は養老5 (721) 年に熊毛郡から分割して設置されたものである。『和名抄』には郷 45,田 7834町と記している。当国吉敷郡は銅を産出したため鋳銭司がおかれ,いわゆる皇朝十二銭の鋳造にあたった。天慶3 (940) 年の藤原純友の乱には焼かれたこともあった。鎌倉時代に幕府は文治2 (1186) 年当国を東大寺造営料所にあて,俊乗坊重源に国務を管理させたが,このため鎌倉時代を通じて東大寺との関係が深く,守護としては北条氏一門が直接これにあたった。当国の豪族としては大内氏が早く台頭し,鎌倉時代には周防権介を世襲したが,南北朝以降東大寺の知行が有名無実となるや守護となり,天文 20 (1551) 年大内義隆陶晴賢 (すえはるかた) に滅ぼされるまでその居城山口の繁栄が続いた。陶氏を滅ぼした毛利元就以後,毛利氏の支配が続き,関ヶ原の敗戦後にも当国を領有し,山口,徳山,岩国,下松の各藩に分れて幕末にいたった。明治4 (1871) 年廃藩置県で山口県となった。

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藩名・旧国名がわかる事典 「周防国」の解説

すおうのくに【周防国】

現在の山口県東部を占めた旧国名。律令(りつりょう)制下で山陽道に属す。「延喜式」(三代格式)での格は上国(じょうこく)で、京からは遠国(おんごく)とされた。国府は現在の防府(ほうふ)市国衙(こくが)、国分寺は同市国分寺町におかれていた。東大寺再建のため、大仏造営の料国となり、重源(ちょうげん)が大勧進(だいかんじん)として下向した。中世後期、在庁官人であった大内氏が勢力を強め、山口を城下町とした。戦国期時代末期は毛利元就(もうりもとなり)が支配したが、関ヶ原の戦い毛利輝元(てるもと)が敗れ、中国8ヵ国を領有していた毛利氏は周防国、長門(ながと)国の防長2ヵ国に減封され、居城も広島から萩に移された。以後、防長2ヵ国には長州藩と支藩の徳山藩岩国藩がおかれた。幕末に長州藩は尊王攘夷運動の拠点となった。1871年(明治4)の廃藩置県により、岩国県と山口県に分かれたが、同年末山口県に統一。◇防州(ぼうしゅう)ともいう。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「周防国」の解説

周防国
すおうのくに

山陽道の国。現在の山口県南東部。「延喜式」の等級は上国。「和名抄」では大島・玖珂(くが)・熊毛(くまげ)・都濃(つの)・佐波(さば)・吉敷(よしき)の6郡からなる。国府・国分寺は佐波郡(現,防府市)におかれた。一宮は玉祖(たまのおや)神社(現,防府市)。「和名抄」(名古屋市博本)所載田数は7654町余。「延喜式」には調として短席(むしろ)・綿・塩,庸として綿・米など。大宝令制前に周芳総領が設置されるなど,古くから瀬戸内海沿岸の要地で,825年(天長2)長門国から鋳銭司(じゅせんし)が吉敷郡(現,山口市)に移された。源平争乱後の東大寺復興に際して,造営料として多くの用材を供出。平安時代の在庁官人多々良氏から出た大内氏が南北朝期に守護となり,山口に守護所をおいた。大内氏は貿易による経済力を背景に栄華を誇ったが,1551年(天文20)陶晴賢(すえはるかた)の謀反により滅亡し,安芸国の毛利元就(もとなり)が周防に進出した。近世は毛利氏の萩藩領,のち支藩の岩国藩・徳山藩も成立。1871年(明治4)の廃藩置県の後,山口県となる。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

百科事典マイペディア 「周防国」の意味・わかりやすい解説

周防国【すおうのくに】

旧国名。防州とも。山陽道の一国。現在の山口県東半部。国府は防府(ほうふ)市にあった。《延喜式》に上国,6郡。東大寺領など荘園が多く,中世の守護は北条氏一門,次いで大内氏。城下町山口が西国文化の中心となる。のち近世にかけて毛利氏の領国となる。→萩藩
→関連項目中国地方山口[県]

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世界大百科事典(旧版)内の周防国の言及

【織物】より

…2本の経糸(たていと)と2越(こし)の緯糸(よこいと∥ぬきいと)という2組の糸の組合せを最低単位とし,織機を用いて作られたある幅と長さをもつ平面の総称。通常は経糸に対し緯糸が直角に交わって布面を構成するが,近年緯糸に対し経糸を左右斜めに走らせて布面を構成する斜織(ななめおり)が考案され,経糸と緯糸の直交という原則はあてはまらなくなった。
【起源】
 織物の起源とその伝播について明確な答えを出すことは不可能といってよい。…

【東大寺】より

…しかし一方では,伊賀国黒田荘の出作地について寺僧覚仁の国衙との論争は有名で,250町に及ぶ黒田荘が確保され,あるいは筑前国観世音寺,大和国崇敬寺の末寺化と並行して両寺の寺領を支配するなど,財源の確保を計った。鎌倉時代には周防国が当寺復興の造営料国とされ,ときに多少の変遷があったが1000石の年貢が寄せられ,幕末まで重要な財源の一つとなった。1214年(建保2)5月の〈寺領庄々近年田数所当注進状〉によると荘園は10ヵ国30荘に及び,室町時代に及んでその多くは退転崩壊,また堺,兵庫などの関銭の収入もとだえ,1595年(文禄4)9月の検地では大和国櫟本(いちのもと)村で2000石の朱印地,江戸時代に至って2210石余,1695年(元禄8)2月に500石の加増が認められ,長州藩からの1000石をあわせて3710石余が経済的基盤となり,明治に及んだ。…

※「周防国」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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