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周防国 すおうのくに

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

周防国
すおうのくに

現在の山口県東部。山陽道の一国。上国。『日本書紀』には「周芳」と書かれており,雄略紀には角 (つの) 国,神功紀には沙麼県主 (さばのあがたぬし) とある。『旧事本紀』には大嶋国造,波久岐 (はくき) 国造,周防国造,都怒 (つの) 国造が記されている。国府,国分寺ともに防府市大字東佐波令にあった。天平 10 (738) 年の『周防国正税帳』が一部『正倉院文書』として現存する。『延喜式』には大嶋,玖珂,熊毛,都濃,佐波,吉敷の6郡を載せているが,このうち玖珂郡は養老5 (721) 年に熊毛郡から分割して設置されたものである。『和名抄』には郷 45,田 7834町と記している。当国吉敷郡は銅を産出したため鋳銭司がおかれ,いわゆる皇朝十二銭の鋳造にあたった。天慶3 (940) 年の藤原純友の乱には焼かれたこともあった。鎌倉時代に幕府は文治2 (1186) 年当国を東大寺造営料所にあて,俊乗坊重源に国務を管理させたが,このため鎌倉時代を通じて東大寺との関係が深く,守護としては北条氏一門が直接これにあたった。当国の豪族としては大内氏が早く台頭し,鎌倉時代には周防権介を世襲したが,南北朝以降東大寺の知行が有名無実となるや守護となり,天文 20 (1551) 年大内義隆陶晴賢 (すえはるかた) に滅ぼされるまでその居城山口の繁栄が続いた。陶氏を滅ぼした毛利元就以後,毛利氏の支配が続き,関ヶ原の敗戦後にも当国を領有し,山口,徳山,岩国,下松の各藩に分れて幕末にいたった。明治4 (1871) 年廃藩置県で山口県となった。

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デジタル大辞泉の解説

すおう‐の‐くに〔すはう‐〕【周防国】

周防

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百科事典マイペディアの解説

周防国【すおうのくに】

旧国名。防州とも。山陽道の一国。現在の山口県東半部。国府は防府(ほうふ)市にあった。《延喜式》に上国,6郡。東大寺領など荘園が多く,中世の守護は北条氏一門,次いで大内氏。
→関連項目中国地方山口[県]

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藩名・旧国名がわかる事典の解説

すおうのくに【周防国】

現在の山口県東部を占めた旧国名。律令(りつりょう)制下で山陽道に属す。「延喜式」(三代格式)での格は上国(じょうこく)で、京からは遠国(おんごく)とされた。国府は現在の防府(ほうふ)市国衙(こくが)、国分寺は同市国分寺町におかれていた。東大寺再建のため、大仏造営の料国となり、重源(ちょうげん)が大勧進(だいかんじん)として下向した。中世後期、在庁官人であった大内氏が勢力を強め、山口を城下町とした。戦国期時代末期は毛利元就(もうりもとなり)が支配したが、関ヶ原の戦い毛利輝元(てるもと)が敗れ、中国8ヵ国を領有していた毛利氏は周防国、長門(ながと)国の防長2ヵ国に減封され、居城も広島から萩に移された。以後、防長2ヵ国には長州藩と支藩の徳山藩岩国藩がおかれた。幕末に長州藩は尊王攘夷運動の拠点となった。1871年(明治4)の廃藩置県により、岩国県と山口県に分かれたが、同年末山口県に統一。◇防州(ぼうしゅう)ともいう。

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世界大百科事典 第2版の解説

すおうのくに【周防国】

旧国名。防州。現在の山口県東部地方。
【古代】
 山陽道に属する上国(《延喜式》)。793‐849年(延暦12‐嘉祥2)の間に中国から上国に昇格した。《和名抄》は〈スハウ〉とよむ。もと〈周芳〉につくり,大宝令施行後〈周防〉に一定した。国司管治の国としては《日本書紀》天武10年(681)条に初見する。大島,熊毛(くまけ),都濃(つの),佐波(さば),吉敷(よしき)の5郡に721年(養老5)に熊毛郡をわけて玖珂(くか)郡を設置して6郡となった。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

周防国
すおうのくに

山口県の東部に大化改新以後設置された行政区画。この地域は大化以前は周芳(すほう)と記され、周防の字は『続日本紀(しょくにほんぎ)』の697年(文武天皇1)の記事が初見である。この周防の国名は、古くから中央にその名が知られていた周防国造(くにのみやつこ)の名をとったものといわれている。『和名抄(わみょうしょう)』には、同国内に大島、玖珂(くが)、熊毛(くまげ)、都濃(つの)、佐波(さば)、吉敷(よしき)の6郡名がみえ、『延喜式(えんぎしき)』には吉敷、玖珂が中郡、佐波、熊毛、都濃が下郡、大島が小郡と定められている。この郡名は、郡内地域の変更はあるものの、現在までそのまま踏襲されている。国内山陽道の駅数は、『類聚三代格(るいじゅうさんだいきゃく)』によれば10駅であるが、『延喜式』では8駅となっている。
 中世になると、源平の争乱で焼失した奈良東大寺再建のため、周防国は大仏造営のための料国となった。このため、俊乗房重源(ちょうげん)が大勧進となり当国へ下向した。重源は国衙(こくが)の支配機構を整備し、東大寺再建のために材木を伐採して奈良へ送った。重源は下向後10年、1195年(建久6)に東大寺再建の大任を果たした。この後、国衙在庁官人の一人であった大内氏が勢力を増大した。室町時代に入ると、大内氏は防長両国を支配下に置き、山口を城下町とした。さらに、守護大名として室町幕府のなかでも重きをなし、山口は西の京として繁栄した。大内氏は1551年(天文20)家臣陶晴賢(すえはるかた)に滅ぼされ、晴賢も55年(弘治1)毛利元就(もうりもとなり)に敗れて、周防は毛利氏の支配下に入る。
 近世に入ると、1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いで敗れた毛利輝元(てるもと)が、中国8か国から防長2か国に減封されて入部した。居城も、広島から萩(はぎ)へ移された。輝元は1610年に検地を実施したが、周防国の石高(こくだか)は29万6040石余であった。輝元は国内東部岩国地方3万7000石弱を吉川広家(きっかわひろいえ)に与え、南部徳山地方2万石を次男就隆(なりたか)に分与した。残りを本藩領とし、大島、奥山代(おくやましろ)、前山代、熊毛、上関(かみのせき)、都濃、徳地(とくぢ)、三田尻(みたじり)、山口、小郡(おごおり)の10宰判(さいばん)を置いた。宰判とは代官の支配地域で、この宰判を単位として地方支配機構を確立した。
 明治維新の結果、1871年(明治4)廃藩置県が実施され、岩国地方が岩国県、残りが山口県となったが、同年末に周防・長門(ながと)両国は山口県に統一された。89年山口、柳井津(やないづ)、岩国に町制が敷かれ、残り131村に村制が敷かれた。96年郡制が施行され、国内6郡に郡会と郡役所が設置された。2006年(平成18)10月現在、13市9町である。[広田暢久]
『長州藩編『防長風土注進案』全395巻、刊本22冊(1842~46成、1960~66・山口県文書館)』

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世界大百科事典内の周防国の言及

【織物】より

…2本の経糸(たていと)と2越(こし)の緯糸(よこいと∥ぬきいと)という2組の糸の組合せを最低単位とし,織機を用いて作られたある幅と長さをもつ平面の総称。通常は経糸に対し緯糸が直角に交わって布面を構成するが,近年緯糸に対し経糸を左右斜めに走らせて布面を構成する斜織(ななめおり)が考案され,経糸と緯糸の直交という原則はあてはまらなくなった。
【起源】
 織物の起源とその伝播について明確な答えを出すことは不可能といってよい。…

【東大寺】より

…しかし一方では,伊賀国黒田荘の出作地について寺僧覚仁の国衙との論争は有名で,250町に及ぶ黒田荘が確保され,あるいは筑前国観世音寺,大和国崇敬寺の末寺化と並行して両寺の寺領を支配するなど,財源の確保を計った。鎌倉時代には周防国が当寺復興の造営料国とされ,ときに多少の変遷があったが1000石の年貢が寄せられ,幕末まで重要な財源の一つとなった。1214年(建保2)5月の〈寺領庄々近年田数所当注進状〉によると荘園は10ヵ国30荘に及び,室町時代に及んでその多くは退転崩壊,また堺,兵庫などの関銭の収入もとだえ,1595年(文禄4)9月の検地では大和国櫟本(いちのもと)村で2000石の朱印地,江戸時代に至って2210石余,1695年(元禄8)2月に500石の加増が認められ,長州藩からの1000石をあわせて3710石余が経済的基盤となり,明治に及んだ。…

※「周防国」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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