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小松原英太郎 こまつばらえいたろう

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

小松原英太郎
こまつばらえいたろう

[生]嘉永5(1852).富山
[没]1919.12.25. 東京
明治後期~大正期の内務官僚,教育行政官。慶應義塾を中退,新聞の編集に携わる。 1880年外務省出仕となり官界に入る。 1887年までベルリンに駐在,帰国後,埼玉県,静岡県,長崎県知事を歴任し,内務次官。

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出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

小松原英太郎 こまつばら-えいたろう

1852-1919 明治-大正時代の官僚,政治家。
嘉永(かえい)5年2月16日生まれ。「評論新聞」「朝野新聞」の記者をつとめ,明治12年「山陽新報」を創刊。官界に転じ,埼玉県などの知事や司法次官,内務次官を歴任。33年貴族院議員大阪毎日新聞の社長。41年第2次桂内閣の文相。枢密顧問官。大正8年12月26日死去。68歳。備前(岡山県)出身。慶応義塾中退。

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朝日日本歴史人物事典の解説

小松原英太郎

没年:大正8.12.26(1919)
生年:嘉永5.2.16(1852.3.6)
明治大正期の政治家,官僚。備前国御野郡(岡山市)の農業・鰻問屋小松原荘二の長男として生まれる。在郷時代に英学を修め,廃藩置県後の明治7(1874)年に上京し,慶応義塾に入るがほどなく退学。8年民権論を主張する『評論新聞』の編集長になり,これ以降民権畑を歩く。9年「圧制政府顛覆すべき論」にて2年投獄され,出獄後『朝野新聞』に入るが,翌12年郷里に戻り『山陽新報』を創刊する。13年同郷の花房義質の推薦により外務省に出仕し,以降官界に転進する。17年6月からドイツのベルリン公使館駐在(~1887.11),帰国後は内務省系統を歩く。埼玉県知事,内務省警保局長,司法次官,内務次官などを歴任する。33年3月貴族院議員に勅選され(~1916.1),同年11月『大阪毎日新聞』社長,39年3月産業組合中央会副会頭にそれぞれ就任している。同41年7月第2次桂太郎内閣文部大臣(~1911.8)。大正5(1916)年1月から死去まで枢密顧問官(貴族院議員依願免)。このほか,東洋協会専門学校校長(拓殖大学),皇典講究所所長,斯文会会長などを歴任した。内務官僚としては地方自治制度制定にあずかり,文相時代,学制改革関係では高等中学校令を公布し,日露戦役以後の戊申詔書発布,南北朝正閏問題,大逆事件などにかかわる。<著作>立石駒吉編『小松原文相教育論』<参考文献>藤原喜代蔵『人物評論 学界の賢人愚人』,伝記編纂委員会編『小松原英太郎君事略』

(中野実)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

小松原英太郎
こまつばらえいたろう
(1852―1919)

明治・大正期の官僚、政治家。岡山県出身。嘉永(かえい)5年2月16日生まれ。慶応義塾を中退して自由民権運動に関係し、筆禍事件により2年半投獄された。1878年(明治11)出獄して朝野新聞社に入社、翌年岡山で『山陽新報』を発刊。1880年官僚に転身して外務省に出仕、ついで埼玉、静岡、長崎の各県知事や司法次官、内務次官などを歴任、1900年(明治33)貴族院議員に勅選された。1908年、第二次桂太郎(かつらたろう)内閣の文部大臣に就任、1916年(大正5)枢密顧問官となり、山県有朋(やまがたありとも)系の政治家として活動した。大正8年12月25日没。[時野谷勝]

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世界大百科事典内の小松原英太郎の言及

【毎日新聞】より

…当初は大同団結運動支持の柴四朗(東海散士)主筆の下で政治色が強かったが経営上は振るわず,89年からは本山彦一相談役と渡辺治(1864‐93)社長兼主筆の指導の下に穏和な論調の紙面作りと広告収入の増加で発展し,《大阪朝日新聞》と並ぶ阪神地方の有力紙となった。97年から原敬,1900年から小松原英太郎(1852‐1919)が社長を務め,とくに原は紙面の平易化,家庭面,海外通信の拡充に努めた。03年,本山が社長に就任,新聞の独立のためには経営の独立が必要だとして〈新聞商品主義〉を掲げて約30年間経営に当たり,《大毎》の発展に貢献した。…

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