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幕末・明治初年の朝鮮侵略論をいい,とくに明治6年(1873)10月の政変の原因がいわゆる征韓論争にあったことから,一般にはこのときの対朝鮮論をさすことが多い。幕末期の征韓論は佐藤信淵や吉田松陰などにみられるが,大島正朝(友之允,対馬藩)や木戸孝允(桂小五郎,長州藩)などの主張を経て,一方では勝海舟(義邦,幕臣)の欧米勢力に対する日清韓3国の提携構想となり,他方では戊辰戦争直後の木戸や大村益次郎(蔵六,長州藩)らの軍事出兵を背景とする征韓論となる。おりしも明治新政府の国書の形式からする朝鮮側の受理拒否問題から端を発し,1869年(明治2)から翌70年にかけては,外務省派遣の佐田白茅(素一郎)や森山茂らの対韓出兵論,あるいは柳原前光(さきみつ)(外務大丞)の対朝鮮積極論などが出され,これに対しては賛否両論があった。この場合,征韓論は日本の国家統一とからんで発想されていることは注目してよい。
明治政府は1872年5月,これまでの対馬と朝鮮との関係を絶ち,対朝鮮交渉は外務省の専管とし,ついで8月,外務大丞花房義質(よしもと)らを釜山草梁館に派遣して折衝させたが,不調に終わった。翌73年に入り,朝鮮側の排外鎖国政策は〈洋夷〉への反感と相まって高まり,日本との修交を依然がえんじなかった。かくして三条実美太政大臣は閣議に対朝鮮問題を論じた議案を付し,そのなかで〈今日ノ如キ侮慢軽蔑之至ニ立到リ候テハ,第一朝威ニ関シ国辱ニ係リ,最早此儘閣(お)キ難ク,断然出師之御処分之(これ)無クテハ相成ラザル事ニ候〉(一部読下し)といい,当面,陸海の兵を送って韓国の日本人居留民を保護し,使節を派して〈公理公道〉を朝鮮政府に説くことを提議した。参議西郷隆盛は即時出兵には同意せず,使節にみずからがなろうとし,板垣退助,後藤象二郎,江藤新平,大隈重信,大木喬任の諸参議が賛同していったん内定はしたものの,正式決定は岩倉使節団の帰国をまつこととした。しかし使節団帰国後もこの遣使問題は延引され,大久保利通と副島種臣の参議就任をまって賛否両論がたたかわされた。岩倉具視や大久保,木戸らは強硬にこれに反対し,その結果,三条に代わって閣議をリードした岩倉のもと,大久保,木戸に大隈,大木も同調し,10月24日西郷の遣韓使節は中止が決定された。西郷,板垣,後藤,江藤,副島はいっせいに下野した。いわゆる征韓論分裂であり,明治6年10月の政変といわれるものである。
この征韓派と非征韓派の対立を,異質の政治勢力(その程度の差で諸説は分かれる)とみるか,同質の政治勢力の対抗ないし政府主導権の争いとみるかで多くの見解が出されており,また,西郷はあくまで交渉による朝鮮との修交を求めたもので,これまでの彼の征韓論者的イメージを否定する意見も出されている。この征韓論争に勝利し,大久保を中心として固められた大久保政権は1874年には台湾に出兵し,翌75年には江華島事件を引き起こし,朝鮮に対し軍事力を行使した。征韓論争の内実は,こうしたその後の日本の対朝鮮行動と合わせ総体的にとらえなければならない。また,この征韓論が近代日本の対アジア観の原点であり,その延長線上に近代日本の大陸侵略政策があったことも留意しなければならない。
執筆者:田中 彰
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明治の初め日本政府の内外で展開された朝鮮侵略の主張。豊臣(とよとみ)秀吉の朝鮮侵略の失敗後、徳川幕府は朝鮮との修交に努めたが、江戸時代中期以降、儒学、国学の学者たちの間で朝鮮侮蔑(ぶべつ)の傾向がしだいに強まり、欧米諸国の圧迫を受けた幕末には、その圧迫による損失を朝鮮を攻めて補うべしという議論も台頭してきた。こうした議論の主唱者たちは、また『日本書紀』の記述をそのまま歴史的事実とし、古代にも日本は朝鮮を支配していたと考え、その「復活」を目ざした。明治政府が成立すると、征韓論はただ希望的な議論にとどまらず、政府の直面した内外の政治的、経済的状況を背景に、政府の対外政策の根幹の一つとなった。まだ戊辰(ぼしん)戦争も終わらない1868年(明治1)12月から翌春にかけて、朝鮮との国交交渉も緒につかず、したがって朝鮮の「無礼」はもとより、征韓の口実となることは、朝鮮側からはなにひとつ起こっていないにもかかわらず、早くも岩倉具視(ともみ)や木戸孝允(たかよし)ら政府首脳らによって朝鮮侵略が画策された。彼らは幕末の征韓論を思想的に受け継ぎ、そのうえに新政権成立後の士族の不満を外に向け、かつ朝鮮を侵略することによって、政治的、経済的、心理的な諸方面で、欧米諸国による圧迫の代償を得ようとしたのであった。当時、朝鮮では国王高宗の父、李昰応(りかおう)が大院君として政治の実権を握り、対外政策では欧米諸国の侵入に激しく反対し、日本も同じく「洋賊」であるとして、国交を開くことに強く反対していた。そこで西郷隆盛(たかもり)らは、岩倉らが欧米に派遣されている間に、朝鮮への使節の派遣を強硬に主張し、自らその使節となり、事態の打開を計ることを主張した。1873年のことである。しかし、岩倉や木戸、大久保利通(としみち)らが同年秋に帰国すると、彼らは内治の先決を唱えて西郷らと対立、西郷ら征韓派の参議は政府を去った。しかし大久保らも朝鮮侵略に反対ではなかった。翌年台湾に出兵し、75年には日本軍艦を派遣して江華島(こうかとう)事件を挑発し、それを契機に76年には、朝鮮に一方的に不利な不平等条約である日朝修好条規(江華条約)を押し付け、朝鮮侵略に突破口を開いた。これ以後、政治的、経済的に日本の朝鮮侵略は年とともに強まり、日本人の思想のなかに征韓論的発想はますます増幅され、客観的に朝鮮をみる目が失われ、その後遺症は現在まで尾を引いている。
[中塚 明]
『井上清著『日本の軍国主義Ⅱ』(1953・東京大学出版会)』▽『毛利敏彦著『明治6年政変の研究』(1978・有斐閣)』
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…たとえば1869年(明治2)7月,神祇,太政2官の下に民部,大蔵,兵部,刑部,宮内,外務の6省体制が形成され,内政は主として民部省によって所掌されていたが,同年8月には民部,大蔵の合併が,翌年にはその分離が行われるといったぐあいであった。民部省に代わって内務省が内政の中心行政機関として設立された背景には,征韓論をめぐる明治政府部内の変動があったといわれる。72年の春ごろより明治政府内には西郷隆盛らを中心とした征韓論が高まり,一時は西郷の朝鮮派遣が決定された。…
※「征韓論」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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