西海道に属する中国(《延喜式》)。大隅国と同じく日向国より分出し,合わせて南九州の三国,奥三州などと呼ばれた。《日本書紀》白雉4年(653)7月条に〈薩麻之曲竹島之間〉とみえ,《続日本紀》大宝2年(702)8月条に薩摩・多褹(たね)を征討し,戸を校(かんが)え吏を置く,10月条に唱更(はやひと)国司の言上で国内の要害に柵を建て兵を置くとあり,その説明に唱更国とは今の薩摩国府なりとあることから,このころ薩摩国は日向国より分出設置されたと思われる。和銅2年(709)6月条に薩摩・多褹両国司とみえ,10月条に薩摩隼人郡司已下188人入朝とある。薩摩半島南部吾田(あた)の地名は薩摩以前の総称にも用いられ,住人は阿多隼人(はやと)と呼ばれたが,後には薩摩隼人,甑隼人の称が頻出し,朝廷への上番の制も整えられた。《和名抄》によれば薩摩国は出水(いつみ),高城(たかき),薩摩,甑島(こしきしま),日置(ひおき),伊作(いさく),阿多,河辺(かはのへ),頴娃(えの),揖宿(いふすき),給黎(きひれ),谿山(たにやま),鹿児島(かこしま)の13郡を管し,《延喜式》も同様13郡をあげる。《律書残篇》には13郡,25郷,60里,行程12日とある。郷数の少ないのは,伊作,揖宿,給黎等1郷の郡の存在による。久しく班田の制も行われず,その実施は800年(延暦19)のことで,しかも不徹底に終わったと思われる。豪族には阿多君,薩摩公,前公,加志公,衣君等があり,国府は川内(せんだい)川の北岸高城郡に置かれ,国分寺,新田八幡神社等が付近にある。式内社は北薩の加紫久利神社と南薩の枚(開)聞(ひらきき)神社で,後者は古代にたびたび噴火して畏敬された開聞(かいもん)岳山麓にあり,のちに新田神社と一宮の座を争った。吾田(阿多)から薩摩へ,南から北へ同地方における勢力の交代を推測させる。
古代末期には郡郷の制も乱れ,郡より院郷が分出して,1197年(建久8)の〈薩摩国図田帳〉によれば和泉郡,山門院,莫禰(あくね)院,高城郡,東郷別府,祁答(けどう)院,入来院,甑島,薩摩郡,宮里郷,牛屎院,市来院,日置北郷,日置南郷,満家院,伊集院,伊作郡,阿多郡,加世田別府,河辺郡,知覧院,頴娃郷,揖宿郡,給黎院,谷山郡,鹿児島郡等の郡院郷が並立するに至った。また1026年(万寿3)ごろ日向国諸県郡島津駅付近を中心に大宰大監平季基により開発され,摂関家藤原頼通に寄進されて成立した島津荘は,郡司ら在地豪族の領主権拡大の要望と,藤原忠実ら摂関家の荘園拡大策と相まって12世紀以降薩隅日3ヵ国に急速に広がり,薩摩国では〈建久図田帳〉によれば国内全田数4010町余のうち,2934町余が島津荘となった。このうち和泉郡,日置北郷,伊作郡等635町は一円荘となり,他の2299町余は半輸の寄郡(よせごおり)であった。そして寄進した郡院郷司ら在地豪族が,そのまま荘官を兼ねていた。そのころ薩摩半島南部を中心に阿多平氏とも伊作平氏とも呼ばれる鎮西平氏一族が繁衍しており,1138年(保延4)に阿多郡司としてみえる阿多忠景は薩摩権守を称し,大隅にまで勢力をのばした。のち忠景は勅勘をこうむって貴海島(硫黄島)に逐電したが,その一族はその後も長く強勢を誇った。源平交代期に平家方に荷担して没落したものもいたが,平,大前,伴,大蔵氏等大部分の在地豪族は在庁官人,郡司等としてとどまり,鎌倉幕府の御家人となった。
惟宗(島津)忠久は1185年(文治1)島津荘下司となり,翌年地頭に補任され,97年(建久8)には守護に任命され,国内全域に及ぶ河辺郡司以下24名の御家人を統率して,京都大番役を務めている。しかし在地豪族の伝統的権限は強固で,守護・地頭の支配権は容易に浸透しなかった。北薩5郡(高城郡,入来院,祁答院,東郷別府,甑島)の地頭職は千葉常胤に与えられていたが,1248年(宝治2)には相模国より渋谷氏が代わって地頭となり下向土着して,一族はそれぞれ入来院,祁答院,高城,東郷氏らとなった。甑島地頭には武蔵国の小川氏が補任された。その他大宰府領阿多郡にははじめ駿河国の鮫島氏が,のちその北方には相模国より二階堂氏が地頭に任命され下向土着した。島津氏も1203年(建仁3)比企氏の乱の縁坐で一時守護,地頭職を改易されたが,まもなく回復し,3代久経の代,75年(建治1)異国警固のため九州に下向して以来,忠宗,貞久と任国に土着して領内の経営に当たるようになった。かくして在来の在庁官人,郡司ら在国御家人との間で在地領主権をめぐり激しい対立を生じ,争論が頻発することになり(谷山郡山田村地頭と郡司との係争は著名),また一族内でも惣領・庶子間の争いが激化した。
建武新政を経て,南北朝時代の争乱期になると,島津氏は北朝を擁する足利将軍方に属し,南薩の谷山,揖宿郡司らは南朝方に属して島津氏に武力で抗争した。ことに1342年(興国3・康永1)征西将軍懐良(かねよし)親王の薩摩入りで勢力を得た谷山氏らは大隅の肝付氏らと結んで谷山本城に拠り,川内碇山(いかりやま)城,鹿児島東福寺城による島津貞久・氏久らの軍と激戦を繰り返した。懐良親王は47年(正平2・貞和3)肥後に移り,島津氏の勢力は在地に浸透,南朝方に立った南薩郡司らの勢力も漸次衰退に向かった。しかし高師直・足利尊氏と直義の対立に発する武家方の分裂で,南九州でも島津氏と直義の養子直冬(佐殿)方の対立抗争が激化,これに南朝方の勢力も加わり,複雑な情勢となった。島津氏5代貞久は3子師久(もろひさ)に薩摩国守護職を譲り,4子氏久に大隅国守護職を譲った。師久の統を総州家と呼び,氏久の統を奥州家と呼ぶ。師久は川内碇山城,氏久は鹿児島東福寺城を拠点に協力して経営に当たった。75年(天授1・永和1)九州探題今川了俊は肥後に菊池氏を攻め,氏久も出軍していたが,了俊が少弐冬資を謀殺したため,不信感を抱いた氏久は了俊と断絶,帰国して独立の勢いをしめし師久も同調した。了俊は慰留につとめたが成功せず,その守護職を奪ってみずから薩摩・大隅守護の任につき,南九州の国人領主層の連合を形成させて島津氏の領国支配をおびやかそうとした。しかし92年(明徳3)の南北朝合一後,95年(応永2)その失脚により挫折した。
氏久の跡をついだ元久は鹿児島の城を東福寺城より清水城に移し,菩提寺福昌寺を長谷場城下に創建,石屋真梁(伊集院氏)を開山とした。一方師久の後,薩摩国守護職を相続した総州家の伊久は子の守久と不和となり,元久と提携した。しかしまもなく両者間に不和を生じ,渋谷氏一族の内紛に伴って戦火を交えるまでになった。1409年に元久は薩摩国守護職に補任され,大隅・日向を併せて3ヵ国の守護となり,総州家を圧倒した。元久の死後,弟の久豊は総州家と結ぶ渋谷氏や,伊集院氏を制圧,南薩からはじまり総州家の本拠地中・北薩までも奪取,22年守久を出水木牟礼城から肥前に追い,ここに薩摩はまったく奥州家の領有下に帰した。その後忠国,立久,忠昌と三州守護職を世襲,渋谷氏,市来氏等他姓の諸豪族を抑えて守護領国の強化につとめた。しかし一族の反乱と国人の一揆が相つぎ,島津氏歴代はその統制に苦しんだ。とくに碩学桂庵玄樹を肥後より招致し文運の興隆をはかった11代忠昌は1508年(永正5)悲観のあまり清水城内で自殺したほどであった。忠昌の子,忠治・忠隆代とさらに守護の統制力は弱まり,忠兼(のち勝久)ははじめ薩州家島津氏の実久を頼ったが,その情勢の増大を嫌って相州(伊作)家島津氏の忠良(日新)をたのみ,その子貴久を後嗣とする条件で支援を要請,領内の統治をはかった。だがまもなく再び実久と結び,忠良・貴久を退けた。しかし35年(天文4)一族の川上昌久を誅したことから,その遺族与党の攻撃を受け,清水城を捨てて大隅帖佐から日向へ,さらに豊後に走り国外に流寓した。
以後実久の党と忠良・貴久の党の争いとなり,後者が制覇,45年貴久は北郷,樺山氏ら一族の有力者の支持をえて,三州守護職に擁立され,50年伊集院より鹿児島内城(のち大竜寺となる)に移った。前年イエズス会のフランシスコ・ザビエルが来鹿,貴久に会い,また福昌寺の僧忍室と法談を交わしている。薩摩国は東南が外洋に面し,海外文化の流入,海外交易の適地であったから,坊津,山川などの港津を通じて多くの文物が出入したのである。三州太守となった貴久は経略をすすめ,子の義久・義弘らとともに三州統一を達成,義久代にはさらに領域を拡大し,豊後・肥後から北九州にまでおし及ぼしている。しかし87年(天正15)豊臣秀吉の九州進攻によって敗退,義久は抗戦を主張する宮之城の島津歳久,大口の新納忠元らを説得して和を結ぶこととし,川内泰平寺において秀吉に降服,出水郡の一部を除き領国を安堵された。その後朝鮮出兵中の文禄検地では薩摩国の石高は28万3000石余とかぞえられた。
執筆者:五味 克夫
1587年(天正15)以来近世の薩摩国の領域は鹿児島(鹿児島,吉田),谿山(谷山),給黎(きいれ)(肝付氏私領喜入,佐多氏同知覧(ちらん)),揖宿(いぶすき)(指宿,山川,島津氏私領今和泉),頴娃(えい)(頴娃),川辺(川辺,加世田,坊泊,久志(くし)秋目,山田,川辺十島,喜入氏私領鹿籠(かご)),阿多(阿多,田布施(たぶせ),伊作),日置(伊集院,郡山,市来,串木野,禰寝(ねじめ)氏私領吉利(よしとし),島津氏私領永吉,同日置),甑島(甑島),薩摩郡(隈(くま)之城,高江,百次(ももつぎ),山田,中郷(ちゆうごう),東郷,樋脇,北郷(ほんごう)氏私領平佐(ひらさ),入来院氏同入来),高城(たき)(水引,高城),出水(阿久根,野田,高尾野,出水,長島),伊佐(大口,山野,羽月(はつき),鶴田,大村,山崎,島津氏私領佐司,同宮之城,同黒木,樺山氏同藺牟田)の13郡39直轄郷,13私領であった。藩政期最後の1725年(享保10)の享保総検地では30万8293石余の籾高であった。1593年(文禄2)に島津忠辰領の出水など5万石が太閤蔵入地に収公されたが,99年(慶長4)泗川(しせん)の軍功により返還されたので,以後廃藩時まで島津氏の一円知行国であった。
藩府の所在地は鹿児島で城下士屋敷や上中西田の3町があり,諸郷,諸私領はそれぞれ地頭仮屋,領主館を中心として郷士,家中(かちゆう)が麓という武士集落を形成して外城(とじよう)(=郷)行政を行っていた(麓集落)。1721年の百姓人口は薩摩14万9035人,大隅11万2616人で,郡奉行久保之正(ゆきまさ)は《諸郷栄労調》(1809)に〈薩摩は耕地狭少で人口過多なるゆえ3反百姓が多い狭郷だから,この過剰人口を大隅・日向のごとき耕地過多で人口寡小な寛郷に強制移住させるべきだ〉と強調しているが,この人配政策は必ずしも円滑に行われずに,現代に至っている。
執筆者:原口 虎雄
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西海道(さいかいどう)九州の一国。大隅(おおすみ)、日向(ひゅうが)とともに奥三州とよばれた。現在の鹿児島県の西半部にあたる。薩摩半島とその基部、属島に川辺(かわなべ)諸島、甑(こしき)島、長島などがある。北は肥後(ひご)、東は大隅および一部日向と接する。薩摩第一の大河川内(せんだい)川でおおむね南北に分かれる。北の紫尾山(しびさん)、南の冠(かんむり)岳・花尾(はなお)山・金峰(きんぽう)山・野間(のま)岳・開聞(かいもん)岳などは古来霊山として信仰された。開聞岳は古代しばしば噴火を繰り返し、山麓(さんろく)にある開聞(ひらきき)(枚聞)神社は北薩の賀紫久利(かしくり)神社と並んで式内社に列す。薩摩の号は『日本書紀』653年(白雉4)7月条に「薩麻之曲(さつまのくま)・竹嶋(たかしま)之間」とあるのが初見、『続日本紀(しょくにほんぎ)』702年(大宝2)10月条に唱更(はやひと)国司の言上があり、唱更国はいまの薩摩国とあるから、このころ日向国から分出したのであろう。709年(和銅2)6月の勅には「薩摩・多禰(たね)両国司」とある。隼人(はやと)居住の国で、阿多(あた)隼人、薩摩隼人、甑隼人の呼称がある。『和名抄(わみょうしょう)』に出水(いずみ)、高城(たかき)、薩摩、甑島、日置(ひおき)、伊作(いざく)、阿多、河辺(かわなべ)、頴娃(えい)、揖宿(いぶすき)、給黎(きいれ)、谷山(たにやま)、鹿児島の13郡35郷をあげる。等級は中国。豪族に阿多君、薩摩君、前君、衣君(えのきみ)などがあり、隼人の首長の系統かと思われる。班田の制は他国に遅れて800年(延暦19)にようやく実施された。国府は川内川北岸の高城郡にあり、近隣に国分寺、中世以降の一宮(いちのみや)新田(にった)神社などがある。
古代末には郡郷制も乱れ、1197年(建久8)の図田帳(ずでんちょう)によれば26の郡、院、郷が等置記載されており、その大半が近衛(このえ)家領島津庄(しょう)寄郡(よせごおり)となっている。それらの各郡院郷司には平安末期勢威を振るった阿多郡司忠景(ただかげ)の同族の平氏や、大前氏、大蔵氏、伴氏など世襲するものが多く、ほとんど鎌倉幕府の御家人(ごけにん)となっていた。一方、守護兼総地頭には島津(惟宗(これむね))忠久が補任(ぶにん)され、北薩には地頭として初め下総(しもうさ)(千葉県)の千葉氏が、のち相模(さがみ)(神奈川県)の渋谷(しぶや)氏が入部した。以後島津氏はこれら郡司庄官らを統轄、その抵抗を排除服属させながら漸次守護大名へと成長していく。南北朝期、島津氏は師久(もろひさ)の統の総州家と氏久(うじひさ)の統の奥州家とに分かれるが、薩摩は総州家が守護職を相伝した。しかし室町期、元久(もとひさ)の代に奥州家は薩摩国守護職もあわせ、久豊(ひさとよ)の代に総州家を薩摩から追って領有した。居城も出水木牟礼(きのむれ)城から川内碇山(いかりやま)城、鹿児島東福寺(とうふくじ)城、清水(しみず)城と推移。戦国期の忠昌(ただまさ)の代には桂庵玄樹(けいあんげんじゅ)(薩南学派の祖)の招致など文運の興隆もみられたが、1535年(天文4)勝久(かつひさ)は国内の統治に失敗して出国、かわって伊作(相州)家の忠良(ただよし)(日新(にっしん))の子貴久(たかひさ)が鹿児島内城(うちじょう)に入って守護職を継ぎ、その子義久(よしひさ)、義弘(よしひろ)らとともに三州統一に成功、進んで肥後(ひご)、豊後(ぶんご)方面にも進出した。しかし1587年(天正15)豊臣(とよとみ)秀吉の九州入りによって義久は降服、薩摩、大隅と日向の一部が安堵(あんど)された。朝鮮出兵中の1594年(文禄3)太閤(たいこう)検地が実施され、薩摩国は28万余石と算定された。1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いでは義弘が西軍に投じたものの、巧みな外交で領国は安堵され、家久は鹿児島上山(うえやま)城の麓(ふもと)に居館(鶴丸(つるまる)城)を構え、城下町を整備。各郷に麓(府本(ふもと)、武士集落)を置く外城(とじょう)制度をとり、近世封建支配の体制を確立した。維新後、1871年(明治4)の廃藩置県により薩摩国は一円鹿児島県となった。
温暖多湿、台風の常襲地帯、火山灰土壌などのため全般的に生産力は低いが、大隅に比し人口は稠密(ちゅうみつ)であったから、近世その地への人口移動が奨励された。三方を海に囲まれた環境で古来南島貿易が盛んで、海外文物の流入地となり、坊津(ぼうのつ)(南さつま市)、山川(やまがわ)(指宿(いぶすき)市)などがその拠点となっていた。
[五味克夫]
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西海道の国。現在の鹿児島県西半部。隼人(はやと)による反乱鎮定で702年(大宝2)建国されたと考えられる。「延喜式」の等級は中国。「和名抄」によれば出水(いずみ)・高城(たかき)・薩摩・甑島(こしきじま)・日置(ひおき)・伊作・阿多・河辺(かわのべ)・給黎(きいれ)・穎娃(えの)・揖宿(いぶすき)・谿山(たにやま)・鹿児島の13郡からなる。前2郡は肥後などからの移民が居住し,後11郡は隼人が居住する。国府・国分寺は高城郡(現,薩摩川内市)におかれた。一宮は枚聞(ひらきき)神社(現,指宿市開聞)。「和名抄」所載田数は4800余町。「延喜式」では調庸は綿・布など,中男作物に紙がある。班田制の導入は遅く800年(延暦19)。平安末期までに多数の郡・院・郷が成立。12世紀半ばには阿多忠景が勢威をふるった。鎌倉初期には全田地の7割強が島津荘に寄郡(よせごおり)されている。短期間を除き中世を通じて島津氏が守護職を相伝。しかし一族間の内紛が絶えず,各地の豪族も強力で,16世紀半ばにようやく島津氏の支配が確立した。近世も島津氏の鹿児島藩として推移。1871年(明治4)の廃藩置県により鹿児島県となる。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…馬や牛を放し飼うために区画された地域。《和名抄》に〈むまき〉とみえ,この訓は〈馬城〉あるいは〈馬置〉の意といい,馬飼の音のつまったものともいう。《日本書紀》天智7年(668)7月の〈多(さわ)に牧(むまき)を置きて馬を放つ〉の記事を初見とするが,以前から各地に牧が置かれていたことは確かである。
[古代の公牧]
牧には公牧と私牧とがあるが,律令制の整備につれて公牧の制度は急速に整い,《続日本紀》慶雲4年(707)3月条に〈(てつ)の印を摂津,伊勢等23国に給いて牧の駒,犢(こうし)に印せしむ〉とみえる。…
※「薩摩国」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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