日本歴史地名大系 「海老島村」の解説 海老島村えびしまむら 山形県:鶴岡市青竜寺川・内川流域地区海老島村[現在地名]鶴岡市日枝(ひえ)・文園町(ふみぞのまち)・双葉町(ふたばちよう)・千石町(せんごくまち)・城南町(じようなんまち)小真木(こまぎ)村の北にあり、鶴ヶ岡城下の南にあたる。西流する内(うち)川は当地で東から大きく湾曲して西へ流れ、さらに流れを変えて北上する。この様子がエビが腰を曲げているのと似ているところから地名となったとする伝えもある。島・蝦島とも記された。検討の余地は残るが、天正一九年(一五九一)一一月二三日の直江兼続寄進状写(長泉寺文書)に「嶋村廿石之所」とみえ、本領のほかとして長泉(ちようせん)寺に寄進するとある。 海老島村えびがしまむら 茨城県:真壁郡明野町海老島村[現在地名]明野町海老(えび)ヶ島(しま)観音(かんのん)川右岸、真壁―下妻街道筋にあり、北は松原(まつばら)村。慶長一二年(一六〇七)の結城家之記(松平基則氏旧蔵)によれば、弘治二年(一五五六)結城政勝と小田氏治の合戦があり、「小田領中郡四十二郷田中庄・海老嶋・大嶋・小栗・沙塚・豊田一所モ不残結城作領地」とある。また同四年三月三日の結城政勝寄進状(高椅神社文書)に「高橋大明神江、籠所之うハふきめんとして、田一たん三百文之所、海老嶋之内、奉進納候」とあり、高椅(たかはし)神社(現栃木県小山市)に結城政勝が所領を寄進している。江戸時代は旗本領で、元禄郷帳の村高一千九六石余、市毛幹規の「常南遊記」には村高一千八石、六〇戸とある。 海老島村えびじまむら 静岡県:磐田郡竜洋町海老島村[現在地名]竜洋町海老島僧(ぼうそう)川中流域に位置し、西は岡(おか)村、北は草崎(くささき)村(現磐田市)。嘉応三年(一一七一)二月日の池田庄立券状(松尾大社文書)に「嶋」とみえ、田数二二町五段二丈半、うち見作田(耕作している水田)が一八町三六歩あり、約八割の耕作率であった。畠は三町五段四丈、在家は三宇で、坪付は一里のみであったが、三六坪に浜と注記され、当時は現在より海面が高く北に三キロほど海岸線が上がっていたため、当地が同庄の南端にあたっていた。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by