日本歴史地名大系 「海辺大工町」の解説 海辺大工町うみべだいくちよう 東京都:江東区旧深川区地区海辺大工町[現在地名]江東区清澄(きよすみ)二―三丁目・白河(しらかわ)一―四丁目・三好(みよし)四丁目小名木(おなぎ)川南岸と横(よこ)川(大横川)西岸に散在する町屋。地面は十数ヵ所に分れるが、西方大川(隅田川)近く、小名木川に架かる高(たか)橋西方・同東側、同川から横川にかけての地域の四ヵ所に大別される。〔上町〕小名木川南岸の大川河口にも近い町屋。文政町方書上に万年(まんねん)橋続里俗上(かみ)町分海辺大工町と記され、現清澄二丁目にあたる。西は船手方組屋敷、南は霊雲(れいうん)院・美作津山藩松平(越前)家抱屋敷。西葛西(にしかさい)領の内で元来海辺新田とよばれてきた場所。伊奈半左衛門の支配であったが、元和(一六一五―二四)末年から寛永(一六二四―四四)初年頃の小名木川掘立ての際、当地を「奥川舟着岸之湊町」にしたい旨を願出て百姓町屋となり、さらに武家地・寺院地・収公地などがしだいに町屋となっていった。延宝年中(一六七三―八一)までは海辺新町または海辺町とよばれ、海辺新田の町場としての地名であった。町名は周辺まで海岸が迫り、また小名木川をはじめ掘割も開かれ、町場となるにつれて小船による荷物の運送を渡世とする者が増えたため、船大工も多く居住していたことから名付けられた。正徳三年(一七一三)代官・町奉行両支配となる。町内のうち元禄一〇年(一六九七)船手方御役屋敷御用地に収公された土地の代地が、永堀(ながほり)町続き・亥ノ堀(いのほり)通扇橋(おうぎばし)町続き・清住(きよすみ)町続きの三ヵ所に下された。宝暦八年(一七五八)には一町七反余の土地が地主から曹洞宗霊雲院に寄付されて寺地となった(前掲書上)。前掲書上によれば、町内総間数は田舎間で一四七間余。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by