淮陰(読み)わいいん(英語表記)Huái yīn

改訂新版 世界大百科事典 「淮陰」の意味・わかりやすい解説

淮陰 (わいいん)
Huái yīn

中国江蘇省中北部の市。人口56万(2000)。淮陰県が市とは別に,王営鎮に置かれている。民国時代は市街地は清江浦鎮といい,淮陰県に属していた。1951年,鎮を清江市として独立させ,58年には淮陰県と合併して淮陰市としたが,64年再び県市を分離し,県は郊区を管轄することになった。淮河大運河の交差する地点にあって,水運要衝として栄えたが,現在は水運の衰退とともに地方の中心都市になっている。運河の形成される以前にも,淮河の南岸にあって,春秋時代から江南より北方へ至る通路であった。漢代,淮陰県が置かれ,建国の功臣韓信を楚王として淮陰侯に封じたところである。晋代には広陵郡治となり,南北朝期には南北両勢力の拮抗する軍事上の要地であった。しかし広域行政の中心は,東の淮安に移り,隋代には山陽郡(のちの楚州,治は淮安)に編入された。一方,宋代に淮安より淮河に至る清江浦(沙河)が築かれ,その河口は水運の中心として発展した。そしてここに清河県が置かれると,淮陰県は廃れ,元代には清河県に併入され,清代に至るまで清河県と呼ばれた。民国になってこの県を淮陰の古名で呼ぶようになったもので,漢以来の県城は市の南西少し離れたところにある。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「淮陰」の意味・わかりやすい解説

淮陰
わいいん / ホワイイン

中国、江蘇(こうそ)省北部にある淮安(わいあん)市の市轄区。大運河に臨む。常住人口78万8634(2010)。秦(しん)代に淮陰県が置かれて以来、何度かの変遷を経て、1964年青江(せいこう)市となり、1983年淮陰市と改称し、付近の県を含め淮陰地級市を構成した。2000年に淮安市に編入され、地級市の名称が淮安と改称されるとともに、その一区となった。区域は大運河と運塩河交点であるとともに、省北部の道路網が集中していることから、省内の水陸交通の一中心地となっている。また、区内を通る新長線(新沂(しんぎ)―長興(ちょうこう))は幹線鉄道に接続しており、北京(ペキン)、ハルビン、重慶(じゅうけい)などと直結している。米、小麦、ラッカセイなど周辺地域の農産物の集散地で、機械、化学、紡績、食品などの工業が立地する。秦・漢初の名将韓信(かんしん)の故郷として知られる。

[林 和生・編集部 2017年2月16日]

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百科事典マイペディア 「淮陰」の意味・わかりやすい解説

淮陰【わいいん】

中国,江蘇省中部の淮安市の区。旧称は清江浦。1958年清江市と合併して淮陰市となったが,その後付近を合わせて淮安市ができ,その一区となった。大運河と運塩河の交会点にあり,古くから水運上の重鎮。米,麦,コーリャン,ラッカセイの集散地。91万人(2014)。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「淮陰」の意味・わかりやすい解説

淮陰
わいいん

「ホワイイン(淮陰)特別市」のページをご覧ください。

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