中国、黄河と長江(ちょうこう/チャンチヤン)(揚子江(ようすこう))の中間を東流する川。淮水ともいう。源を河南省南西部の桐柏(とうはく)山脈に発し、大別山脈の北方を東流、河南省南部、安徽(あんき/アンホイ)省北部を経て江蘇(こうそ/チヤンスー)省に入り、洪沢(こうたく)湖に流入する。洪沢湖より上流の長さ845キロメートル、流域面積16万4000平方キロメートル。主要な支流は、北方から流入する洪河(こうが)、潁河(えいが)、西淝河(せいひが)、渦河(かが)、澮河(かいが)、沱河(だが)などと、南方から流入する史河(しが)、河(ひが)などである。洪沢湖に流入した淮河の水は主として三河から流出し、高郵(こうゆう)湖を経て、江都(こうと/チヤントゥー)市三江営で長江に流入するが、一部は蘇北灌漑総渠(そほくかんがいそうきょ)を流れ、扁担(へんたん)港口で黄海に入る。
淮河はもとは盱眙(くい)(現在の洪沢湖への流入口)から淮陰、漣水(れんすい)を経て雲梯(うんてい)関で黄海に入る独立河川であった。現在別々に海に入っている沂河(ぎが)、沭河(じゅつが)ならびに現在の大運河の流路を流れていた泗水(しすい)も淮河の支流であった。独立河川であった時代の淮河は長さ約1000キロメートル、流域面積は約26万1500平方キロメートルに達した。流域の北限は鄭州(ていしゅう/チョンチョウ)から梁山(りょうざん)までの黄河南岸の大堤防と沂蒙(ぎもう)山塊で、南限は桐柏、大別の両山脈と皖北(かんぼく)丘陵であった。当時は淮河は清流で、水害もなく、また下流部には洪沢湖などの大きな湖は存在しなかった。ところが1194年の洪水の結果、主として泰山(たいざん)以北を流れていた黄河の一部が泗水の河道を通って淮河に流れ込むようになり、その後また流路がかわり、今度は全流量が開封(かいほう/カイフォン)から南東に流れ、徐州(じょしゅう/シュイチョウ)を経て淮河に流れ込み、淮陰を経て海に入るようになった。こうして1855年まで、600年以上の長い間「黄河奪淮」の情況がみられた。その間黄河がもたらした大量の土砂のため下流部の河床が急速に高まり、淮河の水の出口がなくなったので、黄河との合流点から上流の窪地(くぼち)に流れ込み、洪沢湖、瓦埠(がふ)湖などの湖沼が形成された。湖の面積は、時代が下るにつれ、河床の上昇に対応して拡大し、現在のような大湖が生まれた。1855年黄河が北に移ったため大量の土砂はもたらされなくなったが、淮河はもとの出口を失い、いまもなお増水期には上流から集まる水を排出しきれず、しばしば水害をおこしている。解放後、蘇北灌漑総渠の開削により、一部の水は海に排水できるようになったが、大部分の水はなお長江に排出せざるをえない状況である。そこで各支流の上流部に仏子嶺(ぶっしれい)、梅山、響洪甸(きょうこうでん)、鮎魚(てんぎょ)山、南湾(なんわん)、薄山(はくさん)、板橋(ばんきょう)、白沙(はくさ)など30余の大型ダムを建設するとともに、中流部に10か所ほどの遊水施設を設けて、280億トン余の水の貯留を可能にした。また長江に通じる水路を拡大し、沂河、沭河には放水路を設け、各支流の合流点でも河道の直線化を図って流れをよくすることに努めている。また淮河南方の史河、河流域では上流のダムに蓄えた水を利用して丘陵地の灌漑(かんがい)施設を整備(史杭灌漑区)している。大運河以東では淮河の水を引いて土壌中の塩分を除くなど、土地生産性の向上に努め、また水上交通路の整備も行われている。
淮河は秦嶺(しんれい)とともに南の水稲農業地域と北の畑作農業地域の境界とされてきたが、最近は華北などの水利の整備により水稲作が淮河以北でも各地にみられるようになった。
[河野通博]
中国の黄河と長江(揚子江)の中間を流れる代表的河川で,四瀆(しとく)の一つ。淮水ともいう。主流の源は河南・湖北界の桐柏山地にあり,河南東部,安徽北部,江蘇北部の水を集めて長江と黄海に注ぐ。中間,江蘇に入ったところに洪沢湖を形成し,それより上流の流長は845km,流域面積16.4万km2。洪沢湖より下流はもともと北東走し黄海に注いでいたが,12世紀南宋のとき,黄河下流がはんらんして南流し,淮河下流を奪うと河道が堆積物でふさがれ,淮河本流はより流れやすい南方へ向かい,洪沢湖,高郵湖を経て揚州付近より長江に流入するようになった。安徽・江蘇界の低湿地帯もこのようにして拡大したものであった。現在は古い流路に近く蘇北灌漑総渠を設けたり,支流の各地にダムを設けるなど,水量を調整し水利建設を進めている。支流は北からのものは長く,源は秦嶺山地や黄河本流付近にまで達する。南からのものは桐柏山地,大別山地,張八嶺を源として比較的短い。淮河は黄河下流域と長江下流域の中間にあって,その支流を通じて南北中国の交流がおこなわれ,その中で最も好適の位置に隋代に大運河が設けられた。また気候,土壌等の自然条件が,淮河を境にして異なり,淮河以北は小麦を中心とする畑作農業を基本とするのに対し,以南は稲を中心とする水田農業が発達した。〈南船北馬〉という成語で知られるこの地域性の差は,軍事・政治上でも大きな意味をもち,三国・南北朝時代,五代,南宋時代など,中国が南北に分裂したとき,淮河の線が最も安定した分界線となった。
執筆者:秋山 元秀
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…6地区,10直轄市から成り,省都は合肥。省域は淮河(わいが),長江(揚子江)の中下流域にまたがる。東は江蘇,南は浙江・江西,西は湖北・河南,北は山東の各省と接する。…
…このうち崤山山脈は黄河南岸の陝県と澠池(べんち)県との間で三門峡を越え,対岸の中条山脈と接し,熊耳山脈の東部では1440mの嵩山(すうざん)が高くそびえ立つ。伏牛,外方の両山脈は黄河と淮河(わいが)との分水嶺をなし,伏牛山脈の南東部はさらに淮河と唐河・白河とを隔てている。 東方の大部分は黄淮平原で,主として北の黄河と南の淮河とによって作られた黄土の沖積地である。…
…崑崙山脈の一脈である青海省中部の巴顔喀拉山脈の雅拉達沢山の東麓約30kmにある約古宗列(青稞(大麦の一種)を炒る鍋の意)盆地の南西隅が黄河の発源地で,源流はチベット族により瑪曲(孔雀河の意味)と呼ばれる。
[河道の変遷と黄河文明]
現在黄淮海(こうわいかい)平原とも呼ばれる華北平原は,その別名のように黄河,淮河,海河の3水系の運搬する土砂の堆積によって形成されたものであるが,その堆積作用においてずば抜けた主役を演じたのは黄河であった。皮肉なことに,華北平原において淮河と海河とは現在多数の支流が本流に流入し,その流域面積も非常に広いが,黄河は華北平原の最西端部で洛河と沁水が流入するものの,それより下流には,一本も流入する支流がなく,黄河本流自体も鉄壁のような大堤防に両岸を固められ,その河床は淮河水系と海河水系との分水嶺ともいえる役割を演じているにすぎない。…
…隋の煬帝(ようだい)が建設,整理した大運河は,古代世界で最大の運河に数えられるもので,元代に現状のように修築された。北京から杭州に至る全長1794kmにわたって,海河,黄河,淮(わい)河,長江,銭塘江の五大河川を互いに連絡し,南北間の交通運輸の大動脈として,歴史上に多大の役割を果たすものでもあった。【田中 淡】
[黄河,淮河,長江]
ところで広大な中国ではその諸地域によって自然条件も違い,華北の黄河,華中の淮河そして長江に対する人々の対応の仕方も大きな差があった。…
※「淮河」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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