深沢城跡(読み)ふかさわじようあと

日本歴史地名大系 「深沢城跡」の解説

深沢城跡
ふかさわじようあと

[現在地名]御殿場市深沢

深沢の北部、ぬけ川とその支流(宮沢川)の合流点付近に築かれた中世城郭。足柄あしがら街道(近世の矢倉沢往還)に面し、同街道は当地付近で籠坂かごさか峠を越えて甲州・信州へ通じる道を分岐しており、交通の要衝にあたっていた。県指定史跡。延宝八年(一六八〇)の深沢村指出帳(小宮山家文書)には「今川氏真御取立之由」とあり、今川氏真による築城としている。しかし永禄一二年(一五六九)の閏五月一三日付北条氏政書状(那須文書)に「向甲州築新地」とみえ、さらに同年六月一六日の由良成繁に宛てた氏政の書状(上杉家文書)に「信・甲之人衆、今十六駿州之内号深沢新地寄来候」とあるので、永禄一二年に武田信玄の駿河侵攻に際し、御厨みくりや防衛の拠点として北条氏政により築かれたと考えられる。前掲成繁宛の書状によれば、この時の武田勢の攻勢には北条綱成や松田氏らが立籠って防衛した。同年二月頃信玄は北条氏を牽制するためか、足柄筋に兵を動かしている(二月一三日「足利義氏書状写」野田家文書)。北条氏政はこうした動きに反応し、築城にとりかかったものであろう。なお氏政と氏康が同じ六月一六日に上杉謙信に送った二通の書状(上杉家文書)や氏康から越府人々宛の同一八日の書状(いずれも上杉家文書)では、甲州勢が攻めよせたのは深沢ではなく「古沢之新地」となっている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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