深沢村(読み)ふかさわむら

日本歴史地名大系 「深沢村」の解説

深沢村
ふかさわむら

[現在地名]御殿場市深沢

御殿場村の東に位置し、北東は小倉野おぐらの新田、東は桑木くわぎ(現小山町)。集落の北部をぬけ川が、南部を鮎沢あゆざわ川がそれぞれ東流する。村域は鮎沢川の南東方、箱根はこね外輪山の西側まで広がり、乙女おとめ峠越で相模国足柄下あしがらしも仙石原せんごくはら(現神奈川県箱根町)に通じていた。延宝八年(一六八〇)の村指出帳(小宮山家文書、以下断りのない限り同文書)によれば、集落は本村ほんむら辻村つじむら内山うちやま東村ひがしむら川久保かわくぼ蓮花寺れんげじ狩渡戸かりわたど諏訪之丸すわのまるくだの九つに分れていた。北部を矢倉沢やぐらさわ往還が横断し、また御殿場村かみ町を起点とする仙石原往還(「うとう小屋道」とも)は、村の中央部を縦断したのち、いったん東山ひがしやま新田に抜け、再び当村域に入って乙女峠を越えた。地内には戦国期の深沢城跡があり、永禄一二年(一五六九)六月一六日の北条氏政書状(上杉家文書)にみえる「駿州之内号深沢新地」は同城にあたる。元亀三年(一五七二)五月二日甲斐武田信玄はいずれも「深沢之内」で、蘆沢清左衛門尉に一〇貫文(「武田家朱印状写」判物証文写)、西村宮内右衛門尉に三〇貫文(「武田家朱印状写」同書)、三輪与兵衛尉には増分として一五貫文(「武田家朱印状写」同書)をそれぞれ与えている。


深沢村
ふかさわむら

[現在地名]大江町三郷さんごう

最上川中流右岸にあり、丘陵麓から河岸段丘上に細長く集落が位置する。北東に伏熊ふしくま村、南はカラスまる山を越してよう村。東の丘陵には沢が深く延び、南東端の長峰ながみねまでは三キロ以上の長さがあり、地名はこうした地形による。最上氏領から元和八年(一六二二)山形藩領、正保元年(一六四四)幕府領、文政六年(一八二三)陸奥白河藩領、慶応二年(一八六六)陸奥棚倉藩領。寛永元年(一六二四)とみられる元中山玄蕃頭領一一ヵ村のなかに、高五二一石余とある(「最上盛衰実録」西川町史資料)。寛永一三年の保科氏領知目録の高三一九石余。正保郷帳では田方一九〇石余・畑方一二九石余。宝暦年間(一七五一―六四)とみられる村明細帳(菅井文書)では高五一〇石余、田一四町二反余・畑屋敷二三町七反余。


深沢村
ふかさわむら

[現在地名]長岡市深沢町

渋海しぶみ川が山間地を抜出て信濃川に合流する開口部の左岸にあたり、集落は西山丘陵東麓にある。富岡とみおか村の南、信州道が南北に縦貫する。神谷左衛門が字羽黒はぐろに築城し、この辺り一帯を支配したという。永正七年(一五一〇)と推定される四月一九日の上杉憲房感状(発智氏文書)に、同月二日上杉憲房の将発智六郎右衛門尉が「紙屋庄深沢」で長尾為景の軍と戦いを交えている。大永三年(一五二三)四月二四日の山本光頼旦那売券(米良文書)によると「のそき・しろとり一円」合計二貫文の地が那智山花蔵院に売られたが、その範囲の限りに「ふかさわ」の地名がみえる。高梨たかなし(現小千谷市)の大平家所蔵の記録によると、文禄元年(一五九二)一二月に三島さんとう来迎寺らいこうじ(現越路町)の城主青木氏と同郡平沢ひらさわ(不明)の城主高梨氏の領地が上杉氏の御蔵入となったなかに「深沢入」高九二八石二斗があったと伝える。


深沢村
ふかさわむら

[現在地名]世田谷区深沢一―八丁目・駒沢公園こまざわこうえん駒沢こまざわ五丁目・等々力とどろき七―八丁目・桜新町さくらしんまち一丁目・新町しんまち一―二丁目

新町村の南にあり、荏原えばら郡に属する。南は等々力村。天文二三年(一五五四)四月大吉日の吉良頼康判物(満願寺文書)に「世田谷之内□□村満願寺分」とあり、「□□」の部分には「深沢」と記されていた可能性が高い。同判物では満願まんがん寺領における諸役が免除されている。

天正一八年(一五九〇)の小田原北条氏没落後、家臣の南条重長は名を山崎但馬と変えて領地であった深沢村に引籠ったとされる(風土記稿)。同一九年の深沢村検地目録(大場家文書)が残り、それによれば高一〇八石余。


深沢村
ふかさわむら

[現在地名]清里村上深沢かみふかさわ

山裾を上江かみえ用水が北流する。北は荒牧あらまき村、南は田島たじま村に接する。西から鈴倉すずくら街道が通る。南東雁平かりひら川上流の山間に荻平おぎだいらの集落がある。正保国絵図に高三〇三石余とある。天和元年(一六八一)の年貢割付状(上深沢区有文書)によれば、高三〇三石一斗余、本租免相は二ツ九分五厘三毛で、小役銀八四匁八分七厘・荏胡麻代銀四〇匁四分三厘・植漆木役銭四二〇文とある。検地後の同三年郷帳(蓮浄寺本)では高二七六石余、うち山高二石四升二合。明和七年(一七七〇)のものと思われる山里蝋実穂納訳帳(国立史料館蔵)では、当村から山蝋実四升九合が納められている。


深沢村
ふかさわむら

[現在地名]大内町深沢

いも川の下流右岸にあり、北は米坂よねざか村、南は黒瀬くろせ(現本荘市)に接し、西に標高一八〇メートルの御岳おんたけがある。

慶長一七年(一六一二)の由利郡中慶長年中比見出検地帳(由利郡中世史考)に「深打沢村」とあり、当村をさすと思われる。寛永二年(一六二五)には高一五五石二斗五升二合、納米九三石一斗五升一合、免六ツ(油利之内修理大夫様御知行御検地帳免定之目録写)


深沢村
ふかさわむら

[現在地名]塩川町中屋沢なかやざわ

三橋みつはし村の北、雄国おぐに山麓に位置する。集落は檜原ひばら峠越米沢街道(上街道)に沿い、塩川組に属した。本村の東に端村新田しんでんがある。西・北は田中たなか村。大永五年(一五二五)一二月六日の蘆名盛舜・松本宗勝加判塚原光久売券(新編会津風土記)に「山(郡)たけ屋九ケ村之内南ふかさハ十貫文之所」とみえ、塚原光久は同所を山ともに七五貫文で小泉伊賀守に売渡し、光久の指南富田実持が証状(同書)を添えている。


深沢村
ふかさわむら

[現在地名]茂木町深沢

小貫おぬき村の西、さか川の源流部に位置する。中央部を深沢川が北流、北部で逆川に注ぐ。黒羽藩領知高書上(宇都宮大学附属図書館蔵)では真壁まかべ郡とあるが、慶安郷帳では芳賀郡所属。慶長七年(一六〇二)黒羽藩主大関氏領となり、当村の内七二石余は大関左衛門佐に、同二五三石余は大関寄騎浄法寺休太郎に宛行われた(前掲領知高書上)。慶安郷帳でも黒羽藩領、田二二二石余・畑一一一石余、ほかに宝常寺(法幢寺か)領一三石。寛文年中(一六六一―七三)の惣給人知行高所付(益子文書)に下深沢がみえ、浄法寺図書の知行地


深沢村
ふかさわむら

[現在地名]都賀町深沢

富張とみはり村の西に位置し、東を赤津あかづ川、北を同川支流のさかさ川が流れる。北から西にかけては大柿おおがき村。元亀四年(一五七三)二月三日の佐竹義重書状写(秋田藩家蔵文書など)に「深沢之地」とあり、前年末に皆川俊宗攻撃のため出陣した義重勢の平野大膳亮・加藤太郎兵衛尉らは当地での合戦で戦功をあげている。同年とみられる二月一四日の佐竹義重書状写(秋田藩家蔵文書)によれば、佐竹勢は深沢之城など一一ヵ城を攻め落している。


深沢村
ふかさわむら

[現在地名]あきる野市深沢

あき川の支流深沢川の両岸にあり、四方を山に囲まれる。南は入野いりの村。天文二〇年(一五五一)九月六日の広徳寺領書立(広徳寺文書)に「深沢」とあり、大石道俊により広徳こうとく寺に安堵されている。田園簿に村名がみえ、田一石余・畑三三石余で幕府領、ほかに紙舟役永一四三文。寛文七年(一六六七)の検地帳(五日市町史)では田五反余・畑一九町九反余(うち切畑一四町四反余)・屋敷四反余。貞享二年(一六八五)深沢山での秣刈を当村と大久野おおぐの(現日の出町)が妨害したとして油平あぶらだい村・小川おがわ村など七ヵ村から訴えられたが、入会という証拠がないとして却下された(「裁許状」深沢家文書)


深沢村
ふかさわむら

[現在地名]瑞浪市日吉町ひよしちよう 深沢

細久手ほそくて村の北東、北流する木曾川支流深沢川沿いにある。北境を木曾川が西流し深沢峡を形づくる。日吉一二ヵ村の一。臼井本元禄郷帳に村名がみえ高二〇二石余、尾張藩領。中山道細久手宿助郷を勤める。「濃州徇行記」によれば高二五〇石、田一九町余・畑五町二反余・林一町五反、家数五〇・人数二四〇、馬五。きりほらに家三戸がある。農間に楮作・炭焼・薪採りを行う。川並御用材人足を出す代り木炭窯御免の特権を得ていた。天明三年(一七八三)・享和二年(一八〇二)に当村・田高戸たこうど村と他の日吉郷との間で川平かわだいら山論があった(「内済証文」渡辺文書)


深沢村
ふかさわむら

[現在地名]吉川町下深沢しもふかさわ

北は下町したまち村、南は谷内やち村に接し、西に六角ろつかく山がそびえる。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図に「御料所此外五方分ふか沢村 下」とみえ、本納四〇石三斗九升三合・縄高一〇三石六斗四升九合、家三軒・一三人とある。正保国絵図に村名がみえ、延宝七年(一六七九)の越州四郡高帳では高五六石八斗余。天和三年郷帳によれば高六九石七斗余。享保二年(一七一七)糸魚川藩領に属して幕末に至る。明治二年(一八六九)書写の糸魚川領下美守郷十四ケ村御水帳写(石野武教氏蔵)によると田方四町七反余・分米六五石九斗余、畑方二反余・分米一石七斗余、山三町二反余・分米一石七斗余、漆木三八本・分米三斗余。


深沢村
ふかざわむら

[現在地名]山形市芳沢よしざわ

常明寺じようみようじ村の西に位置し、白鷹しらたか丘陵東麓の山間地に立地。最上氏改易後は山形藩領、延享三年(一七四六)下総佐倉藩領、寛延二年(一七四九)肥前島原藩領、安永三年(一七七四)再び佐倉藩領となる。寛永一三年(一六三六)の保科氏領知目録に村名がみえ、高七四石余。同一六年の定納一紙(佐藤文書)では高八一石余、村内の反別田一町八反余・畑二町四反余、ほかに古館ふるだて・常明寺・若木わかきの三ヵ村への出作地一町八反余。


深沢村
ふかさわむら

[現在地名]高岡市深沢

庄川左岸、下伏間江しもふすまえ村の北方に位置。正保郷帳では高一四七石余、田方九町四反余・畑方四反。明暦二年(一六五六)には草高三八〇石・免四ツに各々増えた(「越中国村御印之留」加越能文庫)。翌三年七六石が川崩れ検地引高となり、寛文一〇年(一六七〇)の村御印の草高二七四石・免三ツ七歩(三箇国高物成帳)。その後も川崩れにより、同一一年二〇石、延宝八年(一六八〇)三八石、貞享元年(一六八四)三二石、元禄二年(一六八九)四〇石、同五年一五石、同一三年二五石、宝永元年(一七〇四)二七石が検地引高となって草高は七七石に減少した(「高免等書上帳」折橋家文書)


深沢村
ふかさわむら

[現在地名]吉井町深沢

東と南は黒熊くろくま村、西は石神いしがみ村、北は小串おぐし村と接し、西境を深沢川(土合川)が北流する。南部は丘陵が起伏する。寛文郷帳では田方一一石八斗余・畑方八一石二斗余で幕府領。江戸後期の御改革組合村高帳では旗本長崎領。寛文一一年(一六七一)の年貢割付状(新井文書)によれば田一町三反一畝余・畑一〇町三反五畝余・屋敷七反余、畑は下・下々畑が九割弱を占める。ほかに新畑一町四反二畝余がある。享保二〇年(一七三五)二月の組頭跡役内紛詫証文(同文書)によると、組頭跡役に反対する惣百姓が徒党を組み、その代表者が出訴したが、惣百姓を過料に科し、惣百姓と村役人の詫証文で落着した。


深沢村
ふかさわむら

[現在地名]六日町深沢

かつら山西麓、三国さくり川右岸にある。東は小川おがわ村、北は田崎たざき村、対岸の西と南はみや村。上杉家の重臣で、上田衆の深沢氏発祥の地との説がある。正保国絵図に村名がみえ、高八三石余。


深沢村
ふかさわむら

[現在地名]長南町深沢

長南宿の西に位置する。文禄三年(一五九四)上総国村高帳に村名がみえ、高一八四石。正保国絵図では高一五四石とする。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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