日本歴史地名大系 「清水河岸」の解説
清水河岸
しみずかし
最上川左岸、
当地に酒田と内陸とを結ぶ中継河岸としての本格的舟着場が設けられた年代は明らかではない。興国六年(一三四五)とする説(願行寺文書)もあるが、文明八年(一四七六)当地に入部した清水氏(「清水家系図」小屋文書)のねらいが最上川舟運の掌握にあったらしいことからみれば、河岸成立も一五世紀まではさかのぼるといえよう。清水氏歴代当主は河岸の拡大整備に努め、合海村の開村もその一環といわれ、慶長一六年清水義親は一ヵ月のうち一七日はすべての荷物を合海で荷揚げするよう命じるなど、同舟着場の振興を図っている(増訂最上郡史)。享保八年(一七二三)の清水船岸由緒書上(小屋文書)などによれば、戦国期、酒田から上る諸荷物はすべて当河岸で陸揚げされて内陸へ陸送されたという。しかし、慶長一九年宗家最上家親により清水氏が滅ぼされると当河岸の特権的地位の低下をもたらした。すなわち当河岸が有していた川舟中継権は大石田河岸に奪われ、代りに往来する川舟より運賃の一〇分の一の役銀を徴収する権利が与えられた。これは、当地が最上氏領国全体からすれば北に偏し、とくに村山地方の物産積出しには不便であるのに対し、大石田河岸は山形城下から少し離れているものの陸路で通じやすく、また
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報