清水町村(読み)しみずまちむら

日本歴史地名大系 「清水町村」の解説

清水町村
しみずまちむら

[現在地名]大蔵村清水

現大蔵村の北部、最上川中流域にあり、北は合海あいかい村、南は南山みなみやま村、東は長者原ちようじやはら(現舟形町)。清水村とも称されたが、春日かすが町の別名でもよばれた(天明八年「巡見使案内帳」奥山文書など)。新田本村鑑に「田中に清水湧出る所あり、其水甚清冷なる故に其所の号とす」とある。最上川右岸の本郷のほかに桂掛かつらかけはやし藤太沢とうたざわ・十郎ヶ袋・熊高くまだか稲沢いなざわとおり向清水むかいしみず白須賀しらすかなどの枝郷がある(同村鑑)。中世―近世を通じ最上川舟運の河岸場が置かれた。また北方、枝郷大坪を経て新庄城下へ向かう道、東方長者原村を経て羽州街道舟形ふながた宿(現舟形町)とをつなぐ道などが通じ、近世、周辺諸村の物資が集散する水陸兼帯の交通の要衝として、新庄藩領の表玄関の役割を果したといえる。

本郷対岸の向清水にある清水城は、最上氏一族清水氏の居城で、同氏が入部したのは当地の河岸を押え最上川舟運を掌握しようとしたことにあるとされる。戦国期には城郭南方、現在水田と化した二の丸の外側には二日ふつか町・春日町・かみ町・しも町・山形下屋敷やまがたしもやしきなどの町場が形成され、さらに東山麓には清水氏累代の菩提寺興源こうげん院や西来せいらい院、会林えりん(のち新庄城下に移転)東漸とうぜん(のち赤松村に移転)、丘上に修善しゆうぜん(のち現新庄市の升形村に移転)などの寺院が配された。清水大蔵大輔分限帳(小屋文書)によれば家臣団のなかに町衆(一〇)簗衆(四)・大工(二三)・坊寺(一六)・山形下屋敷衆(一〇)などがみえ、町衆は城下・河岸などで御用物資の調達・輸送に従事するほか、配下町人をまとめて各種商工業に従事していたと考えられる。


清水町村
しみずまちむら

[現在地名]福島市清水町・蓬莱町ほうらいちょう

伏拝ふしおがみ村の南に位置。奥州道中が通り、宿が置かれた。東は田沢たざわ村、南は浅川あさがわ村、西は石名坂いしなざか村。成立について「信達二郡村誌」の清水町村の項は、天正一八年(一五九〇)石名坂村が割かれて分村独立したとし、田沢村の項は、延宝元年(一六七三)幕府検地の際に田沢村の西方の地を割いて清水町村としたと記す。また「信達一統志」は「信達古語」にいうとして、天正一一年田沢村の人々が移って町駅を開いたが、街道筋に木の根が多く歩行困難であったため伊達政宗が根子町ねつこまち駅と名付け、のち延宝年中国領半兵衛検地の際に清水町とされたと述べる。さらに「清水村誌」は天正一一年根子町を開いた際に平沢ひらさわ村・清水村・石名坂村・田沢村の人々が移住したと記す。ただし寛文四年(一六六四)写の正保信達二郡絵図(米沢市立米沢図書館蔵)には清水町村がみえ、また天正一一年町駅開創との説は、同一八年の誤写かと思われる。


清水町村
しみずまちむら

[現在地名]鯖江市東清水ひがししみず

高雄たかお山の北麓、河和田かわだ川の南側にある。北はなか村、西は片山かたやま村、東はさわ村に接する。朝倉氏時代には遊女町として栄えたといわれる(河和田村誌)

慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では川田かわだ庄に含まれる。正保郷帳に村名がみえ、田方は二二七石余・畠方は四三石余。「越前国名蹟考」は枝村として「堂下」を記す。初め福井藩領、貞享三年(一六八六)幕府領、元禄五年(一六九二)土岐頼殷領、正徳二年(一七一二)幕府領、享保五年(一七二〇)より鯖江藩領。


清水町村
しようずむら

[現在地名]豊前市清水町

赤熊あかぐま村の南、吉木よしき村の東、岩岳いわたけ川下流域に位置する。元禄豊前国高帳では「セウツマチ」と訓じる。江戸時代の領主の変遷は今市いまいち村に同じ。元和八年人畜改帳に村名がみえ御蔵納分と給人分、家数一二・人数二九(うち百姓四・名子二)、牛三二。延享三年(一七四六)の御案内覚帳(稲葉文書)では高一八六石余、免四ツ、春免二分五厘引、竈数一八、家数二八・人数一〇二、馬五。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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