大石田河岸(読み)おおいしだかし

日本歴史地名大系 「大石田河岸」の解説

大石田河岸
おおいしだかし

[現在地名]大石田町大石田

最上川中流に設置された同川最大の河岸。大石田が河岸として重要視されてくるのは、最上義光が内陸部を統一した天正一〇年(一五八二)頃からである。最上川を利用する舟運は近世以前よりあったが、山形城下船町ふなまち河口酒田湊を一貫して通船できるようになるのは、最上氏が庄内まで領国を拡大した慶長六年(一六〇一)以降のことで、その前後に最上氏は大石田の上流にある最上川三難所を開削したと伝える(「願正御坊縁起」願行寺蔵)。同一九年最上氏は清水しみず(現最上郡大蔵村)の清水氏を滅ぼし、清水河岸が握っていた最上川船の中継権を大石田に移した。慶安三年(一六五〇)商人荷物輸送に関する通船定法(酒田船は大石田まで上り荷、大石田船は上郷への上り荷と酒田までの下り荷)が定められ、運賃の十分の一を荷宿が取立てる制度、清水・大石田・船町の三河岸体制が出来上る。さらに寛文一二年(一六七二)河村瑞賢西廻海運を整備し、最上川流域の幕府領城米(年貢米)の江戸廻米制を確立したのに伴って、城米・私領米・商人荷物の順に川下げする秩序が出来上った(以上「最上川船差配転変之姿」二藤部文書)

最上川の川船は酒田湊に拠点を置く酒田船と、内陸部に拠点を置く最上船とに分れていた。城米・私領米の川下げには酒田船と最上船が半分ずつ当たり、その代償として商人荷物の輸送が許されていた。船数は元禄年間(一六八八―一七〇四)が最も多く、元禄一〇年の酒田船は大小三六〇艘(「酒田川船諸願文書」本間文書)。同一六年の最上船は大石田河岸の独占で、大船(米三五〇俵積)一三六艘・中船(米二五〇俵積)一二八艘・小船(米二〇〇俵積)二八艘の合計二九二艘に上る(「最上川船雑記」二藤部文書)。酒田湊までの城米川下賃は寛文一二年に城米一〇〇俵につき六俵半から三俵半までと定められた。すなわち、長崎ながさき(現東村山郡中山町)山辺やまのべ(現同郡山辺町)から六俵半、灰塚はいづか落合おちあい(現山形市)本楯もとだて(現寒河江市)寺津てらづ(現天童市)から六俵、谷地やち(現西村山郡河北町)羽入はにゆう野田のだ(現東根市)から五俵半、蟹沢かにさわ(現東根市)貝塩かいしお(現村山市)から五俵、境野目さかいのめ(現村山市)から四俵半、大石田・小菅こすげ毒沢どくさわ(現尾花沢市)から三俵半であった。正徳元年(一七一一)から五年まで一俵増し、享保元年(一七一六)に二俵減となり、同五年から七年まで七俵から四俵まで、同八年に一俵半減となり、延享四年(一七四七)最上船に限って五厘増となる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の大石田河岸の言及

【大石田[町]】より

…芭蕉,正岡子規らの文人が訪れ,最上川を詠んだ句碑がある。【松原 宏】
[大石田河岸]
 出羽国村山郡の北部,最上川中流部にあった最大の河港。奥羽山脈を水源とする朧気(おぼろけ)川,丹生川がこの地域で最上川に合流する。…

※「大石田河岸」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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