日本歴史地名大系 「大石田河岸」の解説
大石田河岸
おおいしだかし
最上川中流に設置された同川最大の河岸。大石田が河岸として重要視されてくるのは、最上義光が内陸部を統一した天正一〇年(一五八二)頃からである。最上川を利用する舟運は近世以前よりあったが、山形城下の
最上川の川船は酒田湊に拠点を置く酒田船と、内陸部に拠点を置く最上船とに分れていた。城米・私領米の川下げには酒田船と最上船が半分ずつ当たり、その代償として商人荷物の輸送が許されていた。船数は元禄年間(一六八八―一七〇四)が最も多く、元禄一〇年の酒田船は大小三六〇艘(「酒田川船諸願文書」本間文書)。同一六年の最上船は大石田河岸の独占で、大船(米三五〇俵積)一三六艘・中船(米二五〇俵積)一二八艘・小船(米二〇〇俵積)二八艘の合計二九二艘に上る(「最上川船雑記」二藤部文書)。酒田湊までの城米川下賃は寛文一二年に城米一〇〇俵につき六俵半から三俵半までと定められた。すなわち、
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報