渋江村(読み)しぶえむら

日本歴史地名大系 「渋江村」の解説

渋江村
しぶえむら

[現在地名]葛飾区四つ木よつぎ一―三丁目・東四つ木ひがしよつぎ一―四丁目・東立石ひがしたていし二―三丁目

川端かわばた村の西に位置し、北は四つ木村、西は古綾瀬ふるあやせ川を隔て木下きのした(現墨田区)、南は上木下川かみきげがわ村。「しぼえ」ともよばれた。応永五年(一三九八)八月日の葛西御厨田数注文写(鏑矢記)に「渋江 二十四丁 公田四丁」とみえ葛西かさい御厨の内であった。年月日未詳の葛西御厨入部注文写および葛西御厨田数注文写(ともに同書)には「渋江 廿八町」と記される。北条氏所領役帳には山中内匠助の所領として「葛西渋江之郷」三九貫五〇〇文がみえる。


渋江村
しぶえむら

[現在地名]倉敷市老松町おいまつちよう一―五丁目・うえ上新町うえしんまち日吉町ひよせちよう南町みなみまち

白楽市ばくろういち村の西に位置し、南部に枝村田ノ上がある。もとは高梁たかはし川河口のデルタ地帯に位置した。嘉元三年(一三〇五)七月二六日の亀山法皇譲状(亀山院御凶事記)で新院(後伏見上皇)に譲られた渋江庄は当地一帯に比定される。同四年の昭慶門院領目録(竹内文平氏旧蔵文書)では室町院領に新院御分としてみえ、元弘三年(一三三三)六月七日の後醍醐天皇綸旨(「園太暦」観応二年一一月二六日条)で法金剛院(現京都市右京区)領とされている。


渋江村
しぶえむら

[現在地名]山形市渋江・白川しらかわ

千手堂せんじゆどう村の北西に位置し、北西流する白川の下流右岸平地に立地。白川は当村の北西端で川に合流。字たてうちは渋江因幡守の館(渋江城)跡と伝える。寛永一三年(一六三六)の保科氏領知目録に村名がみえ、高一千三七四石余。正保郷帳では田一千一五二石余・畑二二一石余・寺社領一石余。「最上記」によれば幕府領漆山うるしやま陣屋支配一五ヵ村の一で、寛文・延宝検地高一千七一二石余。天保一三年(一八四二)には高二千三五石余(村山郡石高帳)


渋江村
しぶえむら

[現在地名]飽田町並建なみたて

北は大保だいほ村、南は白石しろいし村、西は畠口はたぐち村に接する水田地帯。天文二〇年(一五五一)八月二六日の大友義鎮領知預ケ状案および、同二一年三月二〇日の大津留長清等連署打渡状案(いずれも大友家文書録)に「河尻庄之内渋江壱町八段分」とあり、賀来民部少輔に給与されている。

慶長九年(一六〇四)九月の検地帳では「川尻庄渋江開村」とあり、田方一三町二反七畝余・畠方三町六反余、分米一九三石八斗余で、名請人・屋敷持ともに七人とある。同一二年の検地帳では田方一三町五反九畝余・畠方四町六反二畝余、分米二一一石九斗余とあり、屋敷登録人は八人、竈数一二・家数一八、男二八・女二四、牛九。寛永一二年(一六三五)の地撫帳では当竿前一三町六反九畝余とあり、下ケ名は惣右衛門分・三郎左衛門分など慶長九年・一二年の名請人からとったもののほか、道畑・中かたなどがみえ、潟畠二二町九畝余が記され、銭塘与兵衛手永に属したが、のち横手手永に属した。


渋江村
しぶえむら

[現在地名]小矢部市渋江

平田ひらた村の東、渋江川右岸平地に立地。元和五年(一六一九)の家高新帳に「しふゑ」とみえ、役家数五、高木組に属する。正保郷帳では高二八二石余、田方一八町五反余・畑方三反。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高二九一石・免四ツ七歩、小物成は鮎川役三匁(三箇国高物成帳)。天保一〇年(一八三九)の高物成帳(菊池家文書)では高二四三石。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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