湯浦村(読み)ゆのうらむら

日本歴史地名大系 「湯浦村」の解説

湯浦村
ゆのうらむら

[現在地名]阿蘇町湯浦

西は西湯浦にしゆのうら村、東は宮原みやばる村と接する。中世には湯浦郷内で、当村域には中島なかしま杉園すぎそのみなみ北村きたむらすだれ内田うちだ東原ひがしはら上河口かみかわぐち・下河口・したか・じようなどがあった。元徳二年(一三三〇)一月一四日阿蘇社造営にあたって、河口は四宮・国造こくぞう・金凝宮に用いる料木を負担している(「阿蘇社造営料木第三箇度切符写」阿蘇家文書)。応永一六年(一四〇九)九月二六日の阿蘇社領権大宮司方催促方田数坪付注文(同文書)になかしま(中島)・すきその(杉園)・みなミ(南)・北の村・すたれ(簾)・うち田(内田)・ひかしはら(東原)・上河口・下河口・城に関する記載があり、中島・簾・東原・城には各々二反の、南には一反の、内田には二反半の、上河口・下河口には五反の庄分の田地(中司免)があった。このうち簾・内田は百姓が逃亡したため亡所となり、耕作は行われず、南は亡所であったが別の百姓を入れて耕作が行われた。また村々には山野が付属したが、上河口・下河口にはなかった。

応永一六年九月日の湯浦郷坪付山野境等注文写(阿蘇家文書)に、中島・杉園・南・北・簾・内田・東原・上河口・下河口・戸無の内城などの村名がみえ、坪付に登録された田地が各々五反、したかには八反三丈あった。


湯浦村
ゆのうらむら

[現在地名]芦北町湯浦

北流する湯浦川左岸にあり、北は平生ひらばえ村、南西橋本はしもと村・山川やまかわ村に接する。文和二年(一三五三)七月二四日の相良定長宛の一色範氏感状案(相良家文書)に「肥後国凶徒葦北湯浦太郎秀基城事、去五月十九日夜追落之刻、若党被疵之由」とある。元中四年(一三八七)九月二六日の牛屎元勝代山内元清軍忠目安案(牛屎院文書)に「当国葦北庄湯浦城御敵忍取之間、相良三郎相共仁元勝馳向、去八月十七日彼城令対治、楯籠所凶徒悉討捕、一族若党数十人被疵畢」とある。この当時は水俣氏一族の湯浦氏がこの地に拠っていたと思われる。この頃の湯浦は相当広い地域をさしていたと思われ、この城は近世寺河内てらがわち村内にあった宮崎みやざき城跡と考えられている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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