瀬田村
せたむら
[現在地名]世田谷区瀬田一―五丁目・玉川一―四丁目・玉川台一―二丁目・上野毛三―四丁目・砧公園・大蔵一丁目・桜丘四丁目、神奈川県川崎市高津区瀬田
用賀村の南にある。荏原郡に属する。西は多摩郡岡本村、南は南東流する多摩川を隔てて対岸に飛地があり、橘樹郡諏訪河原村(現高津区)。中央を南北に矢倉沢往還が通り、渡船(二子渡)で多摩川対岸の橘樹郡二子村(現同上)とを結んでいた。六郷用水(次太夫堀)が中央よりやや南側を東西に流れる。永徳二年(一三八二)四月五日の足利氏満御判御教書(川上茂久氏所蔵文書)によれば、「武蔵国荏原郡世田郷」の世田左衛門入道跡の地頭職などを、鳩井美濃三郎義景とともに鎌倉扇ヶ谷の法泉寺(現神奈川県鎌倉市)に沙汰し付けるように岩井左近将監が命じられている。同月一三日の鳩井義景打渡状(相模文書)では、この足利氏満の意向を受けて義景は岩井左近将監とともに同地頭職を法泉寺雑掌に沙汰付けている。
瀬田村
せたむら
[現在地名]可児市瀬田
可児川と久々利川との間に延びる丘陵の北側、可児川の開析した平地面との接点にある。明知八郷の一。慶長郷帳、元和二年(一六一六)の村高領知改帳、正保郷帳はのちの古屋敷・顔戸(現可児郡御嵩町)、柿田・瀬田・淵之上・石森・石井・平貝戸の八村を明知村として記載。慶長郷帳では一千八〇七石余が幕府領、一千石が旗本妻木領、残る七七三石が徳野藩領。前掲領知改帳以降幕府領は尾張藩領に、徳野藩領は承応二年(一六五三)以降は上知され幕府領となる。正保郷帳では田三千二七四石余・畑三〇三石余、柴山・草山がある。
寛永一〇年(一六三三)の新井造築につき一札(古田文書)に瀬田村とみえ、当村および柿田・淵之上・平貝戸・顔戸の各村は顔戸村に新井を造るにあたり溝代の負担や修築について取決めを行っている。臼井本元禄郷帳によれば幕府領五八三石余・尾張藩領三〇四石余・旗本妻木領三六三石余の三給。
瀬田村
せたむら
[現在地名]大津町瀬田
大林村の東、阿蘇立野の火口瀬から西流する白川が刻んだ谷口に位置する。建久七年(一一九六)一月二三日、宇治惟泰は「世田村」などを子息惟次(継)に譲った(承久二年九月一四日「北条義時下文」阿蘇家文書)。しかし惟次が阿蘇本社大宮司職を離れたため、惟泰は「せた」村などを「あそとの」に譲り直した(正治二年一二月一四日「宇治惟泰譲状写」同文書)。正治二年(一二〇〇)四月一五日、惟次が大宮司職に還補されたため(「阿蘇社領家下文」同文書)、同年一二月一四日、惟泰は再び先祖相伝の私領である阿蘇郡南郷内の当村など一〇ヵ村を「せうゐん」である惟次に譲り直した(前記惟泰譲状写)。「正員」とあることから、阿蘇社大宮司職に付随した所領であろう。
瀬田村
せたむら
[現在地名]和木町大字瀬田
和木村の西、関ヶ浜村の東に位置する。安芸国との国境を流れる小瀬川に北面する。古くは「勢田」とも記された。岩国藩領。
村名の初見は永禄三年(一五六〇)の渡辺文書(「閥閲録」所収)で、瀬田七貫目の地を毛利隆元が渡辺与三次郎へ与えている。慶長一五年(一六一〇)の検地帳には勢田とあり、寛永三年(一六二六)の熊野帳以下は「瀬田村」となる。村名の由来を「享保増補村記」は「当村ハ山広ク、大谷小谷多シ、谷水ツドフ故ニ、雨年ニハ水損有リ、郷俗四十八山田有ト云ヘリ、谷々ヲ数ルニ、其数有ベシ」として、ゆえに瀬田とよぶという。
瀬田村
せたむら
[現在地名]上県町瀬田
樫滝村の北、瀬田川流域にある。「津島紀略」では仁田六ヵ村として瀬田・影山・中栗巣をあげるが、検地帳や郷村帳ではこの三村を合せて瀬田村と称している。大永八年(一五二八)七月二七日の宗盛次書下(伊奈郡判物写)に「せたのその」とみえ、塩津留助兵衛の扶持とされるが、この「せた」は当地と考えられる。
瀬田村
せたむら
[現在地名]長浜市三和町・地福寺町
長浜町の南に接し、南と東は平方村。瀬田町村とも記される。寛永石高帳に高三三七石余とあり、彦根藩領三二九石余、八幡宮領八石余。旧高旧領取調帳では彦根藩預分は高三四三石余、八幡宮領八石余。文久二年(一八六三)上知され、彦根藩預となったと思われる。村域は長浜町内の田町・船町・金屋町・金屋新町などを含み、畑地を旧城跡内にもち、旧城跡の北、長浜新田の東にも田地があり、きわめて散在的な村であった。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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