日本歴史地名大系 「灌頂院跡」の解説
灌頂院跡
かんじよういんあと
金堂の北、根本大塔と
「高野春秋」応徳元年(一〇八四)条に「三月日、始経営壇上灌頂院、依大御室之尊施財、観音院僧都一流鼻祖寛意也監護之、相攸於上古九間僧坊之蹤」とあり、同年三月大御室性信親王の発願により、寛意の指揮のもと僧房跡に建立され、同二年三月、性信親王は京都東寺に準じて春秋二季の灌頂の執行を計画したが、灌頂院の完成を見ずに没した(高野春秋)。翌三年八月竣工し、九月二七日性信親王の一周忌に座主定賢を導師として落慶供養が修され、遺命により検校維範を大阿闍梨に、入寺定深を乞戒師として結縁灌頂を執行し(「高野山検校帳」又続宝簡集ほか)、この日維範・明算・良禅の三口の供僧が置かれた(同帳)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報