日本歴史地名大系 「根本大塔」の解説
根本大塔
こんぽんだいとう
金堂の北東にある朱塗二層の塔。一三間四面、高さ一六〇尺、多宝塔形式で、昭和一二年(一九三七)の再建。単に大塔ともいう。八葉峯の中央に位置し、また真言密教を象徴する建物として建立されたことから根本大塔と称するという(続風土記)。空海は高野山に密教理論に基づいた伽藍の建設を計画したといわれ、西塔金剛界に対し、大塔は胎蔵界を象徴する塔とされた。内部は一六本の柱で内陣と外陣に分れる。内陣には中央に本尊胎蔵界の大日如来坐像(高さ八尺八寸)、周囲に各七尺の四仏、すなわち向かって右前に阿、左前に宝生、左後方に阿弥陀、右後方に不空成就を安置する。この五仏には金剛界五仏説(小野仁海日記)、胎蔵界五仏説(「金剛峯寺建立修行縁起」ほか)、本尊胎蔵大日、四仏は金剛界四仏説(成雄口訣)などがあるが、西塔の五仏が金剛界のものであることから、大塔は胎蔵の五仏であったとする説が強い。一六本の柱には十六大菩薩が、外陣の四隅には大日如来・金剛薩・竜猛・竜智・金剛智・不空・恵果・空海の付法八祖像が描かれている。
空海在世中に講堂一宇・僧房一宇とともに完成していたとする説もあるが(金剛峯寺建立修行縁起)、承和元年(八三四)空海は毘盧遮那法界体性の塔二基(大塔・西塔)、および胎蔵金剛界両部曼荼羅(講堂)を建立するため、有縁の道俗に勧進しており(性霊集)、空海没後、五〇年余を経て完成したといわれる(続風土記)。すなわち堂塔建立由来書(続宝簡集)に「根本大塔高十六丈百六十尺、安置胎蔵五仏、付之習在別記、此塔、嵯峨天皇御願、仁明天皇御宇、起立御供養、此塔者、実恵大徳真然僧正被下、宣旨造立之」とあり、真然の尽力によって貞観(八五九―八七七)末に一応の完成をみて、仁和三年(八八七)頃光孝天皇の御願として完成した西塔とともに、落慶供養が行われたと考えられる(金剛峯寺建立修行縁起)。
〈大和・紀伊寺院神社大事典〉
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報