日本歴史地名大系 「火打岩村」の解説 火打岩村ひうちわんむら 兵庫県:篠山市旧篠山町地区火打岩村[現在地名]篠山市火打岩奥畑(おくはた)村の北東にあり、北部に畑(はた)山・小金(こがね)ヶ嶽などが連なり、畑川が流れる。正保郷帳に「火打岩村」とみえ、田高二三六石余・畠高一二石余。元禄郷帳では記載がなく、「丹波志」では宗部(そがべ)郷のうちで、奥畑の支郷とあり、高二五四石余。天明三年(一七八三)の篠山領内高並家数人数里数記では畑組で、家数五五・人数二四四。「多紀郡明細記」によれば、山役米三石七斗余のほか薪四三荷余・瓦焼木二二束などを納め、家別六二・人別二五六、牛一三で、産物として山椒をあげる。 火打岩村ひうちいわむら 島根県:益田市火打岩村[現在地名]益田市黒周町(くろすちよう)高津川の支流白上(しらかみ)川に流入する二条(にじよう)川の下流から分岐する湯田(ゆだ)川流域に位置し、西は下黒谷(しもくろだに)村、北は城九郎(じようくろう)村。地名は発火する石を産したためという(二条村物語)。江戸時代の支配の変遷は持石(もちいし)村と同じ。古高一三六石余、寛永一四年(一六三七)の検地高二一〇石余(万手鑑)。宝永年中(一七〇四―一一)から藩は年貢として紙を上納させたので、至る所に楮を植えた。文化年間(一八〇四―一八)黒谷組では津和野から長州藩領江崎(えさき)湊(現山口県田万川町)へ元出しの紙辻五千四〇〇丸で、うち六八九丸地楮紙・四〇九丸働漉紙・五八二丸御買紙・二六丸増買紙、一四〇丸中保受高となっていた(益田市史)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by