烏山城(読み)からすやまじょう

日本の城がわかる事典 「烏山城」の解説

からすやまじょう【烏山城】

栃木県那須烏山市にあった山城(やまじろ)。1414年(応永21)ごろ、那須氏は那須家の家督を継いだ福原城主那須資之と、その弟の沢村五郎資重の関係が悪化し、上那須家と下那須家に分裂した。この城は、1418年(応永25)に、下那須家初代当主となった資重によって築かれたとされている。その後、下那須家はこの城を本城としてきたが、1514年(永正11)に下那須家は滅亡して那須氏は統一されたが、烏山城はその後も那須氏の居城となって存続した。その後、那須氏は宇都宮氏や常陸国の佐竹氏による攻撃をたびたび受け、城下まで攻め込まれることもあったが、城を保った。1590年(天正18)、那須氏は豊臣秀吉の北条氏攻め(小田原の役)に参陣しなかったことから、戦後秀吉に改易され、那須氏は断絶した。その後、城主として2ヵ月間と短期間ではあったが、織田信長の次男の織田信雄(のぶかつ)が入城したことがある。その後、武蔵忍城主の成田氏長が入封した後、那須資晴徳川家康から旧領の5000石を与えられて那須家が再興され、その子資景にも5000石が与えられて大名に復帰し福原城の一郭に陣屋を設けた。しかし、後嗣がいないことを理由に除封となる。その後、那須家は増山正利の弟高春を養子に迎え、高春は那須資弥と改名して1681年(天和1)には烏山藩2万石の大名として、烏山城を居城とした。しかし、資弥にも嫡男がいなかったために家督争いが起こり、それを理由に1687年(貞享4)に、那須家は改易・断絶となった。その後、烏山藩は永井氏、稲垣氏ののちに、大久保常春が入封し、以後大久保氏が代々藩主をつとめて明治に至り、1869年(明治2)、版籍奉還に伴い烏山城は廃城になった。1872年(明治5)には積雪により三の丸御殿が倒壊し、1873年(明治6)には失火により古本丸、二の丸、中城、北城の建物が焼失してしまった。現在、城跡は県立自然公園となっているが、石垣・土塁などの遺構がよい状態で残っている。また、搦手門が同市内に移築され現存している。JR烏山線烏山駅から徒歩約5分。◇臥牛城とも呼ばれる。

出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の烏山城の言及

【那須氏】より

…鎌倉時代以降,烏山の那須氏を宗家として,芦野氏,福原氏,千本氏などを分出し,党的結合をもって活動した。室町時代には足利氏に仕えたが,戦国争乱期には烏山城に拠って,那須郡,塩谷郡など下野東北部を支配下におさめ,支族福原氏と協力して近隣諸士の侵攻を防いだ。那須資晴(1556‐1609)のとき,勢力を最も強め,佐竹氏,宇都宮氏などと対立した。…

※「烏山城」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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