日本歴史地名大系 「照屋村」の解説 照屋村ていーらむら 沖縄県:沖縄島中部沖縄市照屋村[現在地名]沖縄市照屋(てるや)一―五丁目・城前町(しろまえちよう)・宮里(みやざと)一丁目安慶田(あぎだ)村の東にあり、西を比謝(ひじや)川が北流する。ティーラとよばれる。越来(ぐいーく)間切に属する。絵図郷村帳や琉球国高究帳に記載されず、「琉球国由来記」に村名がみえる。ただし後述するように万暦年間(一五七三―一六一九)や康熙五年(一六六六)以前に脇地頭の任職が確認できるので、「南島風土記」の康熙五年の美里(んざとう)間切分割時に照屋村が新設されたとする説には疑問が残る。脇地頭は万暦年間に照屋親雲上寛好(易氏三世照屋家初代)が、万暦四二年から照屋親雲上寛唯(易氏四世照屋家二代)が勤め、しばらく不明の後、崇禎一三年(一六四〇)から照屋親雲上寛条(易氏四世照屋家三代)、康熙一〇年からは照屋親雲上寛盈(易氏五世)と易氏照屋家が続き(易姓照屋家家譜)、同一二年から照屋親雲上秀盈(葛氏多嘉山家五代)、同五九年から雍正七年(一七二九)まで照屋親雲上秀順(同家六代)と葛氏多嘉山家が(葛姓多嘉山家家譜)、そしてしばらく不明の後、乾隆二年(一七三七)から同八年まで照屋親雲上朝和(向氏照屋家初代)が任職する(向姓照屋家家譜)。 照屋村ていーらむら 沖縄県:沖縄島南部糸満市照屋村[現在地名]糸満市照屋(てるや)報得(むくいり)川の河口近くの左岸に位置し、北は同川を挟んで兼城(かにぐすく)村・座波(ざーふあ)村。ティーラ村とよぶ。艾姓大宗家家譜によると万暦四五年(一六一七)生れの艾姓一世長陳の母が「高峯間切照屋村」出身の真加戸とあり、古くは島尻大里(しまじりうーざとう)間切のうちであったと思われる。絵図郷村帳に島尻兼城(しまじりかにぐすく)間切「てりや村」、琉球国高究帳に同照屋村とあり、「琉球国由来記」には兼城間切照屋村とみえる。前掲高究帳に「いとまむ村」と併記されて高頭一三八石余、うち田七三石余・畠六五石余。 照屋村ていーらむら 沖縄県:沖縄島南部南風原町照屋村[現在地名]南風原町照屋(てるや)喜屋武(ちやん)村の南西、高津嘉山(たかちかざん)の南東緩斜面に広がる村。ティーラ村とよぶ。インジャー山から移ってきた大城子が村立てをしたという。琉球国高究帳に村名はみえないが、村名を欠いて高のみ記される村があり、喜屋武・中里(なかざとう)(現喜屋武の一部)・照屋の組合せと思われる。「琉球国由来記」には本部巫根所火神・神アシアゲ之殿の二拝所が本部ノロの管轄、アヘダノ嶽・アヘダ之殿・アヘダノ御嶽(うたき)之殿の三拝所が玉那覇ノロ管轄としてみえる。この本部ノロが近代以後照屋ノロと称する。 照屋村ていーらむら 沖縄県:沖縄島中部中城村照屋村添石(しーし)村に隣接していたとみられるが、正確な場所は不明。絵図郷村帳に「てりや村」とある。琉球国高究帳には照屋村とあり、高頭四三石余、うち田二三石余・畠二〇石余。村内にはヨキヤ巫火神があり、ヨキヤノロが祭祀を管掌した。稲二祭のときは中城御殿より神酒などが供えられた(琉球国由来記)。照屋村は「琉球国由来記」「琉球国旧記」には記載があるものの、一八世紀末の作製とされる間切集成図、「琉球藩雑記」や一八八〇年(明治一三年)の県統計概表など近代の史資料には記載がない。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by