照高院跡
しようこういんあと
瓜生山下にあった聖護院(現左京区)門主の退隠所。もと妙法院(現京都市東山区)に豊臣秀吉の信を得た天台僧道証が開基したが、方広寺(現東山区)鐘銘事件に関係して廃された。元和五年(一六一九)後陽成天皇の弟興意法親王が、廃棄の決定した伏見城(現同市伏見区)の建物を譲り受け、北白川に再建(山州名跡志)。天台宗に属し、白川御殿とも、また雪輪菊の紋を用いたことから雪輪御所ともよばれた。以後道周・道晃・道尊・忠誉の法親王が門主を務めたが、「京都御役所向大概覚書」に「白川 照高院 無住 右照高院は聖護院御門跡御居所御寺領 今程は無住故御蔵入ニ罷成」と記すように門主不在の時期もあり、明和七年(一七七〇)以後は寺領一千石(京都御役所向大概覚書)とともに聖護院の兼帯所となり、明治に至る。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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