狩尾村(読み)かりおむら

日本歴史地名大系 「狩尾村」の解説

狩尾村
かりおむら

[現在地名]峰町狩尾

三根みね村の南西、木坂きさか村の東にあり、山越道が通じる。三根浦の西手にあたり、対岸賀佐かさ村。南西の口江くちえと当地は中世よりみえる地名であるが、近世には一村扱いとなる場合があり、また狩尾村をもって総称とし、口江は枝郷とする場合がある。狩尾の海辺の近くで石剣が出土したと伝える。「津島紀略」では「加里於」と訓じるが、現在の「かりゅう」という通俗音が歴史的であると思われる。中世は三根郡のうちで、康暦元年(一三七九)八月一日の宗隆茂(澄茂)宛行状(仁位郷判物写)に「つしまの島みねの郡内かれうの畠」とみえるのが当地と考えられ、つな(現豊玉町)の源十に給分として宛行われた。応永六年(一三九九)「かれうの畠」の知行が石房氏、ついで先の伊州(宗伊賀守澄茂)の時のとおり平山徳兵衛に安堵された(同年二月一二日「宗貞茂安堵書下」・同年一二月二六日「宗貞茂安堵書下」同判物写)


狩尾村
かりおむら

[現在地名]阿蘇町狩尾

東と北は折戸おりど村、西は的石まといし村と接する。苅尾村とも記される。元徳元年(一三二九)から始まる阿蘇社造営に際し料木を負担している(同二年一月一四日「阿蘇社造営料木第三箇度切符写」阿蘇家文書)。建武三年(一三三六)三月一一日の阿蘇社領郷村注文写(同文書)には下田常陸介が沙汰する西郷のなかに「一所三町三段 狩尾村」とみえる。至徳二年(一三八五)八月七日の阿蘇社領郷々注文(同文書)では「一所かりを三丁」とあり、一町五反ずつに分れ、それぞれ御米田と一宮免田であり、南郷の北朝方の大宮司惟村の代官の「さきのまこたらう」と「なかゝ」の代官の金凝祝の知行とみえる。応永一一年(一四〇四)一一月三日の阿蘇社領宮地居取田并郷々御米田算用状(同文書)には、当村のうちの御米田のみが記され、当作分の田地一町四反は反別三斗五升代と二斗代に分れている。同一六年九月二六日の阿蘇社領権大宮司方催促方田数坪付注文(同文書)に「三町三反内 さく ありひやくしやう三人」とみえ、当村のうちの東村の「からもと」の五反が中司免であり、阿蘇社の八月の放生会に「男こも めこも二まい うるくかまむしろ二十二まい」とともに中司方に納めることになっている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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