狩野内膳(読み)かのうないぜん

改訂新版 世界大百科事典 「狩野内膳」の意味・わかりやすい解説

狩野内膳 (かのうないぜん)
生没年:1570-1616(元亀1-元和2)

桃山時代画家重郷(しげさと),一翁斎とも称する。その子一渓の著した《丹青若木集(たんせいじやくぼくしゆう)》によると,狩野松栄門人となって狩野姓を許され,豊臣秀吉に仕えたという。1604年(慶長9)秀吉の七回忌に豊国神社で行われた臨時祭の様子を描いた《豊国祭礼図屛風》(豊国神社),《南蛮屛風》(神戸市立南蛮美術館)などの風俗画にすぐれた手腕を認めることができるが,ほかにも近年さまざまな主題の作例が見いだされている。桃山末期の狩野派傍流の作画傾向を知るうえで重要な画家の一人である。
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朝日日本歴史人物事典 「狩野内膳」の解説

狩野内膳

没年:元和2.4.3(1616.5.18)
生年元亀1(1570)
安土桃山・江戸初期の画家。名は重郷,号は一翁。荒木村重家臣池永重元の子として生まれる。天正6(1578)年ごろ,根来密厳院に入ったが,のち還俗して狩野松栄に絵を学んだ。15年には狩野氏を称することを許され,またそのころ,天下人秀吉の支持を得て,以後,豊臣家の絵事を勤めた。秀頼の命で「家原寺縁起」の模写をしている。「豊国祭礼図屏風」(豊国神社蔵)は,慶長9(1604)年秀吉の7回忌臨時大祭の公式記録ともいうべきもので,内膳の代表作である。同11年秀頼によって奉納された。その他内膳の作としては「南蛮屏風」(神戸市立博物館蔵)が著名である。<参考文献>成沢勝嗣「狩野内膳考」(『神戸市立博物館研究紀要』2号)

(榊原悟)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「狩野内膳」の意味・わかりやすい解説

狩野内膳
かのうないぜん

[生]元亀1(1570)
[没]元和2(1616).京都
桃山時代~江戸時代初期の画家。父は荒木村重の家臣。幼名久蔵,のち内膳重郷と改める。号は一翁。狩野松栄に絵を学び狩野姓を許され,のち豊臣家絵師となる。代表作は『豊国祭礼図屏風』 (豊国神社) ,『南蛮屏風』 (神戸市立博物館) 。内膳の嗣子一渓重良は『丹青若木集 (たんせいじゃくぼくしゅう) 』の著者として有名。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「狩野内膳」の解説

狩野内膳 かのう-ないぜん

1570-1616 織豊-江戸時代前期の画家。
元亀(げんき)元年生まれ。僧籍にはいるが還俗(げんぞく)して狩野松栄の弟子となり,狩野姓をゆるされる。豊臣秀吉に目をかけられ,豊臣家の御用をつとめた。慶長9年(1604)の秀吉七回忌臨時祭礼をえがいた「豊国祭礼図屏風(びょうぶ)」や「南蛮屏風」などが代表作。元和(げんな)2年4月3日死去。47歳。本姓は池永。名は重郷。号は一翁。

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世界大百科事典(旧版)内の狩野内膳の言及

【安土桃山時代美術】より

…前期の永徳画《洛中洛外図屛風》や,狩野秀頼の《高雄観楓図屛風》(東京国立博物館)などのあとをうけて,後期でも狩野派が風俗画制作にめざましく活躍した。狩野内膳筆《豊国祭礼図屛風》(豊国神社),狩野長信の《花下遊楽図屛風》(東京国立博物館)などは現世の享楽を素直に肯定しようとする人々の生活態度が反映されている。また南蛮美術は,ポルトガル人の渡来に伴う桃山文化の国際的性格を反映したもので,後期に流行した。…

※「狩野内膳」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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