狩野松栄(読み)かのうしょうえい

百科事典マイペディア 「狩野松栄」の意味・わかりやすい解説

狩野松栄【かのうしょうえい】

桃山時代狩野派画家狩野元信三男で,狩野永徳の父。名は直信。兄の祐雪宗信,秀頼乗信らの早世により家督相続厳島神社絵額《羅城門鬼之図》,大徳寺《大涅槃図》などを制作したが,温和な画風のため,子の永徳の活躍の陰に隠れて目だたなかった。

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改訂新版 世界大百科事典 「狩野松栄」の意味・わかりやすい解説

狩野松栄 (かのうしょうえい)
生没年:1519-92(永正16-文禄1)

室町末~桃山前期の画家。幼名は源七郎,のち直信(ただのぶ)。民部丞となる。狩野元信の三男で,兄の祐雪,秀頼が早世したので狩野家を継いだと伝える。1563年(永禄6)の《涅槃図》(大徳寺),66年に子の永徳と共に制作した大徳寺聚光院の障壁画山水図》《虎豹猿図》や《四季花鳥図屛風》がある。元信の様式を受けてさらに平明化を進めており,柔らかい筆致で優しさを感じさせる画面は,彼の個性を反映している。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「狩野松栄」の意味・わかりやすい解説

狩野松栄
かのうしょうえい

[生]永正16(1519)
[没]天正20(1592).10.21.
室町時代末期~桃山時代初期の画家。狩野元信の3男。名を直信 (ただのぶ) ,俗名を源七といい,民部と称する。松栄は剃髪後の法名。父元信に画法を学び,長兄祐雪,次兄乗信の早世により狩野宗家を継ぎ法眼となる。元信,永徳に比べ重厚雄渾な気風を欠くが,清楚で柔和な画風は近年再評価されている。永禄6 (1563) 年奉納の『大涅槃像』 (大徳寺) ,同9年作の聚光院客殿『瀟湘八景図』『虎豹猿図』『蓮鷺藻魚図』襖絵,『花鳥図屏風』 (長崎家) ,『四季花鳥図,蝦蟇鉄拐 (がまてっかい) 黄初平図』衝立 (大徳寺) などが伝存。

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朝日日本歴史人物事典 「狩野松栄」の解説

狩野松栄

没年:文禄1.10.20(1592.11.23)
生年:永正16(1519)
戦国安土桃山時代の画家。狩野元信の3男として京都に生まれ,兄たちの早世により家督を継いだ。名は直信,通称源七郎,大炊助,剃髪して松栄と号した。天文22(1553)年父元信の助手として石山本願寺の障壁画制作に参加,次いで永禄6(1563)年大徳寺に「大涅槃図」(大徳寺蔵)を制作して寄進した。同9年三好義継が創建した大徳寺聚光院障壁画(現存)を息子の永徳と共に制作,「遊猿図」「瀟湘八景図」襖絵を担当した。また同12年厳島神社に「羅城門鬼之図扁額」を制作奉納している。松栄は父元信,息子永徳の巨名にかくれ,従来低い評価に甘んじていたが,その平明で優しい画風は極めて魅力的である。

(榊原悟)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「狩野松栄」の解説

狩野松栄 かのう-しょうえい

1519-1592 戦国-織豊時代の画家。
永正(えいしょう)16年生まれ。狩野元信の3男。狩野永徳の父。長兄祐雪の早世で狩野家をつぐ。天文(てんぶん)22年(1553)父とともに石山本願寺の障壁画制作に参加。永禄(えいろく)6年大徳寺の「大涅槃(ねはん)図」を,9年大徳寺聚光(じゅこう)院の障壁画をえがいた。天正(てんしょう)20年10月20日死去。74歳。名は直信。通称は源七郎,大炊助(おおいのすけ)。

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世界大百科事典(旧版)内の狩野松栄の言及

【狩野派】より

…室町中期から明治初期まで続いた,日本画の最も代表的な流派。15世紀中ごろに室町幕府の御用絵師的な地位についた狩野正信を始祖とする。正信は俗人の専門画家でやまと絵と漢画の両方を手がけ,とくに漢画において時流に即してその内容を平明なものにした。流派としての基礎を築いたのは正信の子の元信である。漢画の表現力にやまと絵の彩色を加えた明快で装飾的な画面は,当時の好みを反映させたものであり,また工房を組織しての共同制作は数多い障壁画制作にかなうものであった。…

※「狩野松栄」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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