中国、清(しん)朝末期の学者。字(あざな)は益吾(えきご)、号は葵園(きえん)。湖南省長沙(ちょうさ)の人。同治(どうち)4年(1865)の進士(しんし)で、官は国子監祭酒(こくしかんさいしゅ)、ついで江蘇(こうそ)学政となった。1889年に官を辞し、郷里で教育界の指導者となり、のち内閣学士の勲位を受けた。政治的には聖道を説く保守派であり、戊戌(ぼじゅつ)の変法運動を嫌悪した。また長沙では豪商と結んで財をなしたという評もある。辛亥(しんがい)革命後は名を遯(とん)と改め、文字どおり隠遁(いんとん)した。清朝の編年史『東華録(とうかろく)』『東華続録(とうかぞくろく)』、経書の研究書を集めた『皇清経解続編(こうせいけいかいぞくへん)』など大部の書を編集し、また『漢書補注(かんじょほちゅう)』『後漢書集解(ごかんじょしっかい)』など考証学の名著を残した。
[尾形 勇 2016年3月18日]
中国,清末の学者。字は益吾。湖南省長沙の人。同治4年(1865)の進士。翰林院編修,国子監祭酒,国史館総纂,江蘇学政などを歴任,学問,教育,行政に貢献し,帰郷の後も思賢講舎など書院で後進を育成し,葵園先生と呼ばれた。その著書が嘉褒(かほう)されて内閣学士を贈られる。在官中,戊戌(ぼじゆつ)変法の運動に対しては反対の立場をとる。1910年(宣統2)長沙の飢民の暴動で無実の罪をうけたが,翌年,辛亥革命の混乱が及び,地を避けて著述に励んだ。《尚書孔伝参正》《詩三家義集疏》《漢書補注》《後漢書集解》《荀子集解》《荘子集解》などは,みなその書を読むに必見の注解である。宋の晁公武の《郡斎読書志》の校訂,姚鼐(ようだい)の《古文辞類纂》につぐ続編など,校刊編集の書も多く,国史館にあっての《東華録》は清10朝の編年史。ことに江蘇学政のとき,阮元(げんげん)の《皇清経解》を補完する《皇清経解続編》を編み,さらなる続編《南菁書院叢書》とともに,清朝経学を集成するものとなっている。
執筆者:近藤 光男
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…経史子集四部に分類され,陳振孫の《直斎書録解題》とともに宋代に存在した書籍の実際を知る貴重な史料でもある。原本4巻に趙希弁が付加した3巻をあわせた袁州本と20巻の衢(く)州本の2系統の板本があり,清の王先謙が両者を校合している。【梅原 郁】。…
…現在流布しているのは,たいていこの補刻本である。さらに1888年(光緒14),江蘇学政であった王先謙が《皇清経解続編》209種,1430巻を刊刻。また同年,王先謙は《南菁書院叢書》47種,146巻をも刊刻。…
…しかし,明代以前の作品の選択はほぼ妥当である。さらに1882年(光緒8)には王先謙編の《続古文辞類纂》,89年には黎庶昌(れいしよしよう)編の続選が出版された。漢文の入門書としては,収録作品のもっとも多い本格的なものである。…
…湖南時務学堂ともよばれる。はじめ湖南巡撫陳宝箴(ちんほうしん),前国子監祭酒王先謙らの発議により中体西用を旨とする学堂として設立された。しかしその提調(校長)の熊希齢(ゆうきれい)のもとに集められた教員が,みな康有為の門人か心酔者であったため,1897年(光緒23)10月に開校されるや,たちまち変法維新運動の拠点となった。…
…中国,清朝に関する編年体の歴史書。編者の蔣良騏,王先謙らは国史館に奉職し,清朝の実録や各種記録を参照して編纂した。ときに実録にない記事が散見する。…
※「王先謙」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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