デジタル大辞泉 「教育」の意味・読み・例文・類語
きょう‐いく〔ケウ‐〕【教育】
1 ある人間を望ましい姿に変化させるために、身心両面にわたって、意図的、計画的に働きかけること。知識の啓発、技能の教授、人間性の
2 学校教育によって身につけた成果。「
[補説]作品名別項。→教育
[類語](1)助言・教示・訓示・アドバイス・コンサルティング・カウンセリング・指導・導き・教え・手引き・指南・教授・訓育・教導・
翻訳|education
教育の語源であるが、「教育」ということば(漢語)の使用例は、孔孟(孔子(こうし)と孟子(もうし))の時代にまでさかのぼることができる。今から2000年以上の昔に著された中国の古典『孟子』に、君子の楽しみの一つとして、「天下の英才を得て、これを教育する」ことがあげられているのが最初の出典である(『孟子』尽心・上)。その釈義は、文字どおり「教え育てること」であるが、対象とされるのはあくまでも「天下の英才」であって、どこにでもいるような「子供」を含めていわれていたわけではない。また、「教」は「學」(ならう)と「支」(軽くたたいて注意をあたえる)との合字で、「上から施されたことを下からならう」というのが原義であり、「育」の方は、「月」(肉月)と「子」の転倒した姿からできていて、出産場面を象徴しているともいわれ、「養う」というのが原義である。
日本でも、「教育」ということばは、外来語として上代以来『孟子』の出典箇所とともに知識人の間で知られていた(あるいは、使われていた)と思われるが、日本人が書いたもののなかに登場するのは、江戸時代になってからである。しかし、江戸時代の中期までの書物では、「教化」の使用の方が一般的で、江戸時代後期の書物になって、「教育」もようやく使用例が目だつようになった。幕末近くの安政年間(1854~1860)には、藩校など当時の支配階級のための学校で、学校の活動内容や目標を書きとめた文書のなかに、「教化」よりも「教育」の方が頻繁に使われていることが確認されている。
しかし、エリート階層の子弟に学問を教えることだけではなく、一般庶民を含めて、子供の養育や成長・発達にかかわるさまざまなことがらを、「教育」ということばで論じていくというようなことは、江戸時代を通してまだみられない。そうしたことがらは、「教育」という漢語よりも、「おしえる」「そだてる」「やしなう」「しつける」「おそわる」「ならう」などの和語によって語られていた。「おしえる」の語源は「愛(を)しむ」であり、また「そだてる」の語源は「副立(そいた)つ」であるといわれる。どちらも、幼子(おさなご)をいつくしむ情感がこめられた日常語である。江戸時代には、儒学者の貝原益軒(かいばらえきけん)(1630―1714)をはじめ多くの人々が多彩な子育て書を出しているが、そこでも「教育」の用例はみあたらない。益軒の『和俗童子訓』(1710)は、子供の成長段階を追いながら、幼児のしつけ方や習慣形成の仕方、勉学への導き方、さらに道徳や社会規範の身につけさせ方など、現代からみて教育のあらゆる領域にわたることがらを取り上げているものの、「教育」ということばの使用例はみられない。
「教育」ということばが、家庭での子育てや、学校での教授活動、そして国の青少年育成方針に関することなどを広く、そして一般的、抽象的にさして使われるようになるのは、明治時代になってからである。「教育」は、英語の「エデュケーションeducation」の意味を移植するための翻訳語として使われるようになった。同じ翻訳語でありながら、たとえば、「社会」ということばが英語の「ソサイアティーsociety」の意味を移植するために、福沢諭吉のような特定の個人によって新しく造語されたのとはちがって、「教育」の場合は、漢語・日本語としてすでに流通していたものである。明治初期に、「教育」は、それまでの意味を換骨奪胎され、「エデュケーション」の意味を担う翻訳語として転用されることになったのである。
英語の「エデュケーション」の用法は、漢語の「教育」のそれよりもはるかに広く、多岐にわたっている。歴史的にいえば、エデュケーションの対象になるのは子供childや若い人young personばかりではない。カイコsilkwormを養ったり、動物animalを飼い馴らしたりするようなことも、「エデュケーション」ということばで表現されていたし、エデュケーションを行う主体も、親や教師のような人間ばかりでなく、世間worldがしたり、周囲の状況circumstanceがしたりすることができた。
英語のeducationおよびフランス語のエドゥカシオンéducationということばの語源については、諸説があって解釈が定まってはいない。通説によれば、それはラテン語のエドゥカーレeducareに起源があることばだとされている。そしてeducareは、「外へ」という意味をもつ接頭語e-と、「引く」という意味をもつ動詞ducareとの合成語で、「(子供の内側にある)能力を外に引き出す」という意味をもつと解釈されてきた。ドイツ語でも、同様にラテン語educareの趣旨を取り入れて、er-(外へ)とziehen(引く)との合成語として、エアチーウングErziehungということばが造られている。
ただし、ラテン語のeducareには、もともとそうした「内側にあるものを引き出す」という意味はなかったとする解釈も根強くある。かりに、「内側にあるものを引き出す」という意味に対応するラテン語をさがすとすれば、educareよりもエドゥケーレeducereの方がふさわしいからである。したがって、「教育とは、語源的には詰め込むことではなく、引き出すことである」という解釈は、なかば思い入れが込められた「改釈」で、それがいつのまにか通説として流通するようになった、というのが真実であるように思われる。
この「(内側にある)能力を引き出す」ことが「教育」の原義だ、という解釈は、それまで、「上から施されたことを下から習う」こととして受け取ってきた日本人の「教育」の語感に、大きな変化をもたらした。その変化をもたらしたのは、個人の意思を尊重する西欧の近代思想と、「子供の発見」以来の新しい教授技術の到来である。なかでも、明治10年代から20年代にかけて、翻訳書やお雇い外国人教師や、また日本からの留学生を通してアメリカからもたらさられた開発主義の教授法は、初等教育のあるべきモデルを日本に伝えた(若林虎三郎・白井毅編纂(へんさん)『改正教授術』1883~1884)。それは、藩校での講読法や寺子屋での手習いのような知識の一方的な注入や模倣だけをねらいとする伝統的な方法にかわる、事物を実物やその絵図(双六(すごろく)図などの掛図)で示しながら、教師と生徒の間で対話を進めていくという教え方、つまり問答法であった。事物を自分の目で直接みる(=直観する)ということを通して、生徒自身にその印象を語らせ、自分で知識を蓄えていく。同時に、ものをみる力や考える力、判断する力を育てていく(=開発していく)という方法である。この直観主義の教授法や開発主義の教授法を、当時の文部省は初等教育を推進する国の方針として積極的に採り入れたが、この教授法の普及に伴い、日本でも、アメリカ・ヨーロッパ諸国の場合と同じ水準で、「教育」ということばが普及する。単なる知識の詰め込みや、教師による一方的な教え込みをさすことばではなく、子供の側の活動や自発性を促していくキーワードとして、明治期以降、日本語の語彙(ごい)のなかに根づいていった。
「教育」ということばは、広義にも狭義にも使われる。また、教育の営みや働きは、巨視的にも微視的にも眺められる。
「教育」をもっとも広義にとらえるならば、教育は人間の身体面・精神面のどちらの面にも影響を与えるすべての作用をさしている。その作用には、家庭生活や社会活動を通して自然に与えられる影響のように、作用を及ぼす者、作用を受ける者両者ともに意識していない部分も含まれる。この広義の意味において「無意図的教育」とよばれ、また、社会の機能に付随した作用であるので「機能としての教育」ともよばれ、さらに、学校などの制度のなかでなされる作用ではないので、「非制度的教育(インフォーマル・エデュケーション)」ともよばれる。どれが好ましい作用で、どれが好ましくない作用かという価値判断を超えて、あらゆる種類の教育を含んでいる。それは、家庭のような小規模の社会から、地域社会、市民社会、国家、民族というような規模の大きな社会まで、どのような社会にも事実として付随している。それはまた、社会のなかで現になされている教育のことであり、社会を維持し保存していく根源的な機能である。こうした教育のことを、フランスの社会学者デュルケームは「事物としての教育(エドゥカシオンéducation)」とよび、「実践としての教育(ペダゴジーpédagogie)」とは区別した。
それに対して、「教育」を狭義に用いる場合には、「教育」は意図的な人間形成作用をさす(意図的教育)。学校教育のような教育、つまり、目的や目標を頭に置いて、その実現のために必要な内容を選び、内容を伝えるにふさわしい方法を工夫していくような実践が、狭義の教育である。実践としての教育は、事実として社会の機能に付随している教育(非制度的教育)とは異なり、好ましさや適切さや有効性などの価値判断がつねにつきまとっている。現代の教育問題を議論する際にしばしばみられる混乱は、議論の当事者たちが、広義・狭義のどちらの意味で教育を問題にしているのかが、はっきりと自覚されていないときにしばしば生じる。
[宮寺晃夫]
教育が果たす役割についてみていくときにも、二つの観点がある。まず、微視的な観点、すなわち個人に焦点をあわせた観点からすれば、教育とは潜在的な発達の可能態として生まれてくる人間(子供)に働きかけて、その可能態を現実態にしていく営みといえる。この観点からは、「教育とは子供が発達していくのを援助することである」という定義がしばしばなされる。昭和初期の代表的な日本の教育学者篠原助市(1876―1957)は、「教育は被教育者の発展を助成する作用である」と明確に定義している。この場合、教育の対象はひとりひとりの人間(子供)であり、教育は親と子供、教師と生徒などの直接的な関係のなかでなされるものとみなされる。
それに対して、巨視的な観点、つまり社会の側の観点からすれば、教育とは、社会の文化や言語や生活様式や決まりなどを、新たに社会に加わってくる人々(子供たち)に伝えていき、彼らを社会の成員にしていく営みである。この観点からは、「教育とは子供を社会に適応させることである」という定義がなされる。「教育とは社会化(ソーシャリゼーションsocialization)である」といわれることもある。篠原よりやや遅れて、第二次世界大戦の前後に活躍した教育学者の宮原誠一は、教育を、「自然成長的な形成の過程を望ましい方向にむかって目的意識的に統制しようとする営みである」と定義したが、ここでいわれる「統制」の主体は、教師だけには限らない。それぞれの社会が、それぞれの「望ましさ」に基づいて形成過程に統制を加えていくこともまた、含まれている。
微視的に眺めれば、教育は発達の助成であるが、巨視的に眺めれば、教育は社会化であり社会による統制である。この二つの観点と定義は、ちょうどメダルの表裏の関係にあって、切り離すことができない。子供の発達を助けることは、その子供を社会のなかに適応させるためになされることであり、反対の側からみれば、子供の社会的適応を促すことが子供の発達を助成することになる。
イギリスの教育哲学者ピーターズRichard Stanley Peters(1919―2011)は、発達の助成と社会的適応というメダルの両面の意味をこめて、「教育とはイニシエーションである」と定義している。子供は、公的な社会生活の場でなりたっている文化形式や思考形式のなかに引き入れられていき、そのなかで人間として生きていく共通の基盤、つまり「生活の形式」が育てられていく、とピーターズはみている。
ただし、このように、発達の助成と社会的適応を矛盾や食い違いのない同一のプロセスとみなすことができるのは、社会が、これまでと同様に、そしてこれからも大きな変動もなく安定して存在し続けていく(あるいは、安定して存在し続けていってほしい)と考える限りにおいてである。そうした伝統主義、保守主義の見方をもはや前提にしていくことができないようなときには、子供の発達の助成と社会への適応との関係は、それほど単純なものではなくなる。とくに、「社会」といっても、そのなかにさまざまな文化的背景をもつ人々が交じりあっていたり、社会の未来像がはっきりとは描けなくなったりしてくると、教育の本質を「発達」とか「適応」などの名目で語っていくこと自体が現実味を失ってくる。なぜなら、どちらの語り方も、目的なり前提なりがすべての人に明確なものである限りにおいて意味をもつからである。目的、つまり最終的な到達点がはっきり示されないまま、発達について語ったり、教育の本質は発達を促すことであると抽象的に論じても、あまり意味のあることとはいえない。目的(ギリシア語でテロス)や目的論が不確定なまま、方法や方法論の側から、「一時に一事を」とか「易から難へ」という教育の原理がたてられることもある。しかし、目的論を抜きにして方法論の有効性を語ることはむずかしい。「方法」の原義(ギリシア語でメタ・ホドス)は、「道にしたがってたどっていく」ことである。どこにたどり着く道なのかが、道の本質であるはずである。
[宮寺晃夫]
教育することができ、また教育することが必要となる理由についても、個人の観点と社会の観点の両面から考えることができる。
近代ドイツの哲学者カント(1724―1804)は、18世紀の末になされたケーニヒスベルク大学での教育学講義のなかで、「人間は教育されなければならない唯一の生きものである。……人間は教育によってのみ人間になることができる。人間は、教育が人間からつくりだしたものにほかならない」といっている。これは、人間が人間として生きていくうえで、教育が、いかになくてはならないものであるのかを強調するためにいわれたことばである。教育の可能性と必要性は、このように、人間という種の特異性から説明されることが多い。
現代オランダの教育人間学者のランゲフェルトMartinus J. Langeveld(1905―89)は、人間がみな、初めは子供として生まれ、存在しているという自明のことに人間の本質を洞察し、独特の人間学を展開しているが、人間は、まさしくホモ・エドゥカンドゥムhomo educandum、つまり「教育を必要とする存在」なのである。
ランゲフェルトは次のように述べている。たしかに、人間は、生物の他の種とは異なり、生後かなり長い期間、自力による摂食や歩行や意思伝達ができず、それらの能力は本能というよりも、周囲の大人たちからの世話を通して少しずつ可能になっていく。人間の新生児には、自主的に行為を発動させる本能は備わってはいない。ただ、周囲の人から世話を受けるという依他性が、組み込まれているだけである。この依他性という本性が、人間に教育が可能であることと、教育が必要であることの説明原理として使われ、教育を社会的、歴史的な文脈のなかで意義づけていく説明原理にもなる。
カントは前掲の教育学講義のなかで、次のようにも述べている。「かつて同様に教育された人間によってのみ教育されるのは、注目すべきことである。そうであるから、若干の人々に訓練や教授がたりないのは、その人たちの児童にとってよくない教師をつくることになる。」
教育は世代から世代へとなされる作用であり、連綿と続けられてきた歴史的、文化的なつながりのなかで、各世代はそれぞれ次世代への責任を引き受け、伝えるべき内容の選択や、伝え方についての工夫を重ねてきた。そのときそのときの文化の状況や政治・経済のあり方とも密接に関わりをもちながらである。ドイツの神学者シュライエルマハーは、19世紀の前半にベルリン大学でなされた教育学講義のなかで、教育が成長世代から未成長世代になされる作用であるとしたうえで、だからこそ、教育は単なる人間形成のための技術というよりも、政治と結びついた技術であると述べている。
教育は人間の種としての特異性に基づいて可能になり、必要となるが、同時に、人間が歴史のなかで社会を形成し、その社会を世代を超えて受け継いできたからこそ、教育は可能になり、また必要となるのである。
[宮寺晃夫]
実践としての教育は何を目ざしてなされるべきなのか、という議論は、「教育目的論」のなかで行われる。一般的に、教育目的論の課題は、教育を受けた結果完成される人間像を描くことである。その人間像は、理想的人間像のように理念として描かれる場合もあるが、それよりも実際的な、実現の可能性のあるレベルで描かれる場合もある。実現可能な場合の理論を、とくに「教育目標論」とよぶ。
近代ドイツの教育学者ヘルバルトは、教育研究の歴史のうえで画期的な書物である『一般教育学』(1806)を書いているが、これには、「教育の目的から導かれた」というサブ・タイトルがつけられている。その「教育の目的」の規定を、ヘルバルトはまず、人々が子供の教育に携さわるときにどのような意図と願いを抱くのか、ということを考えることから始めている。人々は、子供の幸せや、社会に出てから役だつなどの現実的な目的を、「教育の目的」として思い描いてきたが、そうしたこの世での「任意の目的」のほかに、すべての人が無条件で従わなければならない「必然の目的」もあるはずで、こうした目的こそが、「一般教育学」を導いていく「教育の目的」である、とヘルバルトはみなした。それが「道徳的性格」という目的である。この概念の内容を、ヘルバルトは、経験界を飛び越えた思弁の世界で抽象的に語るのではなく、芸術的素養豊かな彼独自の美学に従い、かつ一般の人々が理解できる平易なことばで説き明かしていった。「道徳的性格」を、ひとりひとりの子供の頭のなかの思想界に、着実に実現していくための方法として、ヘルバルトは「教育学(ペダゴギーク)」という学問を組立てていったのである。
ヘルバルトの教育目的論がそうであったように、教育の目的は、だれに対してもあてはまる目的として、一般的に述べられるのが普通である。教育の目的は、ひとりひとりの子供を、そこに到達させなければならないものというよりも、教育的な努力が、それに沿ってなされなければならないものである。つまり、教育の目的は、ゴールを示しているというよりも、ルールを示しているのであり、スポーツ競技のルールと同じように、だれに対しても等しくあてはまるものである。そのために、教育の目的は一般的なものであると同時に、公共的なものでもなければならない。日本の教育関係の法規のなかで、最上位に位置する「教育基本法」は、その第1条で、「教育は人格の完成をめざし……」と規定している。学校をはじめ、すべての教育事業は、この目的に沿って行われなければならないのである。
それに対して、ひとりひとりの子供に実際に到達させることを目ざす目的が「教育目標」である。教育の目標は、ひとりひとりの子供の実態をよくみたうえで、その子供につけたい能力や資質を具体的に想定したもので、それが実際にどの程度達成されたかが、実践の適否を判断する基準にもなる。したがって、教育目標はできるだけわかりやすく、明確に記述されることが望ましい。たとえば、思考力や判断力のような目に見えない能力についても、目に見えるひとつひとつの行動の変化に翻案して教育目標を記述するようなやり方が、1950年代、1960年代のアメリカで提案されたこともある。それが「行動目標論」である。
現代日本の学校教育では、この行動目標論をやや緩和して、各教科ごとに、学年別の到達目標をいくつかたて、それを基準にして児童・生徒の成績の評価を行っている。この評価法は「観点別評価」とよばれている。教育目標論は教育評価論と密接に連動している。
[宮寺晃夫]
事実としての教育ばかりでなく、実践としての教育も、その歴史は人類史とともに古い。子育てやしつけの技法は、親から子へと連綿と伝えられてきたし、また、それぞれの社会には、「一人前」として認められるための目安が受け継がれてきた。一日一反の耕作や、米俵一俵・力石をかつぐことなどで、「大人」としての力量が量られるという風習は、各地で永く伝えられてきた。また、子供から大人になるまでに何段階かの区切りを設け、それぞれの通過儀礼を経ることによって、共同体の一員としてだんだん認知されるようになるというシステムも存在してきた。それらは、教育方法あるいは教育課程(カリキュラム)とよばれるには、あまりに大雑把で実用本位のものであり、また地域に特有のものである。日本では、子育てや産育の習俗を民俗学の手法で調査し、その伝統を、日本人の教育観の土台に位置づけていくような研究が、第二次世界大戦の前から地道になされてきた。なかでも、柳田国男(やなぎたくにお)、橋浦泰雄、宮本常一(みやもとつねいち)、大藤(おおとう)ゆきの業績はよく知られている。彼らの研究によって、日本人が子供を神からの授かりものとしていつくしむと同時に、生みの親だけではなく、世間が力をあわせて子供の成長を見守り、子育てに責任を分かちあってきたことが明らかにされた。「親」は、もともと、生みの親だけをさすことばではなく、名付け親・養い親・親方・親分などをも広くさし、このような人々全体で子供の養育、生活指導、職業指導、生活保障などを分かちあう連合体を意味していた。
しかし、現代社会においては、地域のなかで連帯してなされる子育ての知恵が急速にくずれてきており、それを受け伝えるシステムが機能しなくなってきているという問題が浮上している。
外国人の視点からなされた研究例として、アメリカの文化人類学者R・F・ベネディクトは、著書『菊と刀』(1946)のなかで、日本の教育について、「日本の子育ての風習が、日本人のパーソナリティーの形成に影響を与えており、とくに、日本人の内向性と対外的な残忍性とには、幼児期の母子関係の癒着がかかわっている」とする分析を行っている。
ヨーロッパでは、近年、社会史という歴史学の新しい手法を用いて、大人たちの目に映った「子供像」の歴史的な変遷をたどる研究がなされている。フランスの歴史家アリエスは、中世から近代にかけての家族の肖像画や、子供の墓碑銘などを史料として分析していき、人々が「子供」を「大人」とは異なる独自の存在として庇護(ひご)の対象にするようになっていったのが、歴史上それほど古いことではなく、近世の始まりのころからであることを実証的に明らかにしている。一般には、西欧社会での「子供の発見」は、近代の思想家ルソーに帰せられるが、社会史のうえでは、それよりも早く人々の心性(メンタリティー)のなかに芽ばえていたのである。教育思想史や、学校制度・教育政策の歴史などのうえには記録として残されてこなかった教育の実態が、一般民衆の生活レベルで少しずつ解明されてきている。
[宮寺晃夫]
社会が、その成員によって価値観を共有されていて、伝統的な慣習や習俗が、そのまま保たれている状態にある限り、「教育はどのように営まれるべきか」というような、改まった問い直しがなされることもない。しかし、その社会のなかに、さまざまな考え方の人々が流れ込み、一元的な世界ではなくなってくると、人々は、「さまざまな価値のうち、どのような価値をこそ、子供たちに伝えていかなければならないのか」ということを考えなければならなくなる。教育に関して、このような反省的な思考がいちはやく展開された社会は、古代ギリシアであった。
「ポリス」とよばれる古代ギリシアの都市国家では、長期にわたったペロポネソス戦争(紀元前431~前404)のあと、異邦人たちの流入が相次ぎ、国としての安定性が短期間に失われた。それまで受け継がれてきた因習だけで、ものごとの善し悪しを判定することができなくなってしまった。不安定で複雑化した国家の状況を背景にして、慣習や習俗だけではなく、反省的な思考を働かせることによって、「善きもの」や「真なるもの」を導き出していこうとする知識人たちの活動が始まった。「善きもの」や「真なるもの」を見極める方法を、青年たちに、技法として教えることを職業とする知識人も登場するようになった。このような「ソフィスト」とよばれる一群の知識人のなかに、哲学史上有名なソクラテスがいる。
ソクラテスが教育研究の歴史のうえで重要なのは、なによりも、青年たちに教えていくべき「善きもの」や「真なるもの」が、社会のこれまでの因習のなかだけに求められるものではない、としたことにある。ソクラテスは、「善とは何か」などと青年たちに問いかけ、対話を通して、青年たちをしだいにディレンマ(ジレンマ)に追い込んでいった。そのうえで、彼らに「無知の自覚」、つまり、知っているつもりでいたが、実は何も知らなかったのだという自覚を促し、一緒に真理を探求していこうという意欲を呼び起こしていった。このソクラテス独特の真理の探求法は、教育の方法としては「ソクラテス法」とも「助産法」ともよばれている。ソクラテスは、「知識を技術のように授けていくこと」という教育の常識をくつがえして、「知識は産ませるものである」という画期的な教育観を導入したのである。
ソクラテスは、自分自身はたったの一語も書き残していないが、弟子のプラトンが書いた対話篇(へん)のなかに、ソクラテスの言動が記録されている。そのなかでも、自分自身の死を賭(か)けて、人はどのように生きるべきかを人々に教えようとした『ソクラテスの弁明』と『クリトン』そして、道徳を教えることはできるのかという問題をきっかけにして、「教える」という営みそのものを説き明かしている『メノン』と『プロタゴラス』は、教育研究の発端を示すものとして重要である。
プラトンは、ソクラテスの死後、ソクラテスを主人公とする対話篇を数多く書いたが、しだいに自分自身の独自の考え方を盛り込むようになっていった。とくに、中期以降といわれる作品群では、ソクラテスの口を借りて、プラトン独自の世界観を展開している。それは理想主義とも観念論ともよばれる世界観で、「善きもの」や「真なるもの」が存在する場所を「イデアの世界」とみなし、この世の経験界から区別するもので、二元論の世界観であった。教育の課題は、この世の経験界につなぎとめられている人々を目覚めさせて、イデアの世界に目を向けさせることに求められた。中期の著作とされる『国家』のなかでは、洞窟(どうくつ)に鎖でつながれ入口の方を振り向くことができなくなっている人々のことが語られている。人々は、ただ、洞窟の奥の壁に映っている陰を真実だと思い込んでいるだけである、とプラトンはソクラテスに語らせ、彼らを入口の光源の方に向き直させることが哲学者の使命で、その哲学者を養成するためにこそ教育はなされなければならないとしている。理念ともいえる、あるべき姿との対比を通して、経験界の現実や現象を批判的に考察していく論じ方が、その後「プラトン主義」の名で継承されていくことになる。
アリストテレスは、プラトンが設立した学園アカデメイアで学んだプラトンの教え子であるが、プラトンとは異なり、自然や経験界の事象を丹念に観察することによって、ものごとの本質に迫ろうとした。人間の生き方も、生まれおちた国家(ポリス)のあり方と結びついており、この意味で人間は「ポリス的存在(ゾーン・ポリティコン)」であり、教育もこの制約のなかでなされるほかない。人はそれぞれ、各自の職能によって独自の徳すなわち役だち(アレテー)をもっている。つまり、船をつくることが上手な人には、船づくりの徳が備わっている。しかし、そうした個別の徳のほかに、あらゆる人がもたなければならない「人間としての徳」もあるはずで、それはその人が属している共同体、つまり国家に対してどれだけの奉仕をしているかで定まることである、とアリストテレスはみなしている。つまり、共同体を離れて人間としての徳を抽象的に論じても、意味のないことである。こうした、「共同体主義」とも「アリストテレス主義」ともよばれる考え方は、アリストテレスの著書『ニコマコス倫理学』に系統だって述べられており、プラトンの『国家』と同じように、その後中世、近代、現代に至るまで、教育研究の古典として読み続けられている。
古代ギリシアで、国家の危機とともに始められた教育研究は、続く古代ローマの時代には、ローマ帝国の確立とキリスト教の国教化に伴い、しだいに普遍性(カソリシズム)を志すようになり、神学の教義研究のなかに埋没していく。ストア派の開祖となったゼノン(キプロスのゼノン)のように、アリストテレスの考えを引き継ぎ、ものごとの本質(ロゴス)を、その表れとして質料のなかに探ろうとしたり、キケロのように、政治家として活躍するかたわら、現実に対して懐疑的に向き合ったりする者もいた。
やがて、ローマ帝国の末期には、アウグスティヌスによって、「三位一体」の教義に基づくキリスト教神学が確立される。子供の教育も、「カテキズム」とよばれる、教会による教化の一環として教義問答書の教え込みとしてなされた。一般的に教育研究も、教え込みの技法の開発に限られ、新たな人間像を提示するなどの、教育の目的にまで踏み込んだ課題が追究されることはなかった。しかし、「普遍的なものではない」という意味での「インディヴィドゥウム」、つまり「個としての個」にまなざしが注がれるようになったのは、けっして近代になってからのことではなく、中世のキリスト教教義をつくった人々の間で、すでに始っていたのである。
[宮寺晃夫]
近世ルネサンスの時代を迎え、形成されるべき人間像は鋳型のような画一的なものから解放されるようになる。教育研究も、単なる教え込みの技法の開発にとどまらず、形成されるべき人間像の描き直しを含めて、本格的に展開されていく。そのとき、まず批判されたのは、これまで子供たちに、カテキズムによる暗唱やラテン語の文法の暗記だけを強制してきた学校の教師たちであった。エラスムスやラブレーのようなルネサンスの代表的な人文主義者の著作では、学校の教師は、教会の権威者と同じように、しばしば戯画化されて描かれている。
教会などの権威を背景に人間像を描くのではなく、人間をその本来の姿で描き出すためには、読み書きのような知的な能力に訴えるのではなく、身体や感覚の力のような、だれもがもって生まれる能力に焦点をあわせていくことが必要であった。16世紀には、言語verbumよりも実物resがもつ教育力に着目して、新たな人間像を描き出そうという実学主義(リアリズムrealism)の教授法の改革者が相次いで現れ、ヨーロッパの諸邦に人間形成の技法を説いて回るようになった。ラトケをはじめ、そうした教授学者たちの試みは、宗教上の対立や、国家間の利害の衝突で、長く平和な時代が遠のいていたヨーロッパに、国家を超えた新たな枠組みを築こうという壮大な願いに基づいていた。
[宮寺晃夫]
近世最大の教授学者は、チェコ人のコメニウスである。コメニウスは、祖国が三十年戦争にみまわれるなか、国内外で逃亡生活をしいられながら、教授法の改革による世界平和の実現を説いて回った。その主著『大教授学(ディダクティカ・マグナ)』(1657)は、「あらゆる人に、あらゆる事柄を教授する普遍的な技法」を示すことをねらいとして書かれている。そこで示された教授の技法は、たとえば、草木が季節にあわせて花を咲かせ、実をつけるように、時期をとらえて教えることが大切だ、というような自然をモデルにした技法や、職人たちの手作業の技(わざ)から学びとった技法などが中心で、それらが、だれでも理解できるわかりやすい語り口で、体系的に述べられている。また、教科書としてつくられた『世界図絵(オルビス・ピクタス)』(1658)は、実物を表す挿絵と、それを説明するチェコ語、ドイツ語、ラテン語が併記されていて、「すべての人」を教育の対象にしていることが示唆されている。コメニウスは、教授法という技法の改革を、新しい世界の実現と、新しい世界の担い手の形成という展望のもとで構想したのである。
フランスの思想家ルソーも、くずれゆく身分制社会と、新たに生まれようとする市民社会に直面しながら、教育論に着手している。エミールという子供の成長過程を追いながら、新しい人間像を描いてみせた『エミール』は、身分制社会にかわる新たな社会像を示した『社会契約論』と同じ年の1762年に出版されている。「人間は自由なものとして生まれた。しかも至るところで鎖につながれている」という『社会契約論』の出だしは、「万物をつくる者の手を離れるときはすべてはよいものであるが、人間の手に移るとすべてが悪くなる」という『エミール』の出だしと呼応している。身分制というしばりから解放され、お互いに自由な立場で交じりあうことができるようになった近代人は、市民社会という新しい社会制度をつくりだした。そこでは、人々は「人間(オンム)」としては自由であるものの、「市民(シトワイヤン)」としては相互に義務を負わされる。この人間としてのあり方と市民としてのあり方の両立を図ろうとする人は、結局のところどちらにもなれない。そうしたディレンマにたたされることになる近代人は、子供のうちから、欲望が自己の必要の範囲を超えないようにしつけられ、経験に先だって知識だけが広がってしまうようなことも控えさせられ、事物の必然性にのみ従うように教育されていく。啓蒙主義者のように子供に次々にものごとを教えていくことよりも、不必要な欲望をかきたてられないように、子供を外部の刺激から遠ざけておくような教育法が勧められる。積極的というよりも「消極的な教育」をこそ、ルソーは本来の教育であるとみている。このような教育観に達したのは、やがてドイツの哲学者ヘーゲルによって「欲望の体系」とみなされるようになる市民社会において、人々が、自己を失わずに、また他者を支配するような生き方をもしていかないようにするためであった。
民衆教育の改革家であったスイス人のペスタロッチもまた、フランス革命後の内戦による政治的な混乱と、産業革命に伴う生活様式の激変から民衆を救い出すために、教育論に取り組んでいる。ルソーと同じように、ペスタロッチも、知識の普及による啓蒙活動だけでは、新たな時代状況のなかにいる人々を救い出すことにはならないと考えた。啓蒙活動よりも、自立への援助こそが民衆を救う方法で、これをペスタロッチは「自助への手助け」とよんでいる。前半生で、民衆とともに取り組んだ農場経営に失敗したあと、ペスタロッチは小作品『隠者の夕暮』(1780)と長編の教育小説『リーンハルトとゲルトルート』(1781~1787)を書き、それらのなかで、民衆にとっての幸福は貨幣経済のなかに巻き込まれることを避けて、家族の家計をだいじに守り、身近な生活圏のなかによろこびを感じとることにこそある、と訴えた。子供の教育は、親と子供が、敬神と愛情とで結ばれている家庭のなかでこそ、なされるものである、とペスタロッチは説いたのである。ペスタロッチは、家庭の居間をモデルにして民衆のための学校を営み、そこでの実践の経験を踏まえて、初等教育の一般的教授法を打ちたてた。それが著作『メトーデ』(1800)、『ゲルトルートはいかにその子を教えるか(ゲルトルート児童教育法)』(1801)のなかで示されている。この教育方法論は、「直観のABC」ともいわれ、事物を正確に観察させることから始まって、その直観的な認識をことばで表現させ、事物の概念を形成させていく、という手続きを踏むものであった。分節化された概念形成の手続きが、教授法の段階的進行を定型化していくうえで基礎理論になっている。ペスタロッチ自身は、このことを「教授の機械化」とも「心理化」ともよんでいる。
ペスタロッチの教育方法論は、その後ドイツをはじめヨーロッパ諸国やアメリカ合衆国においても、教員養成のためのモデルとして用られた。やがてアメリカのオスウェゴー大学を経由し、日本の留学生によって、日本にももたらされている。「開発主義」とよばれた明治初期の教授法がそれである。
[宮寺晃夫]
近世以来、新たな時代に対応する人間像が描かれ、そのイメージを現実のものにするための教育の方法原理が示されてきたが、そうした教育研究が「学問」に仕立てあげられるようになるのは、19世紀になってからである。なかでも、いち早く国民教育制度の整備に取り組んだドイツでは、大学での専門分野として「教育学」(ペダゴーギク)を生みだしている。教育学の前史をたどれば、18世紀後半のドイツの大学で、主として哲学部に所属する研究者によって教育学の講義がなされていたことに始まる。そのなかに、ケーニヒスベルク大学のカントもいたが、ほかにも、ハレ大学のニーマイヤーAugust Hermann Niemeyer(1754―1828)らがいた。彼らの多くは、当時の哲学の主流であったカントとフィヒテの哲学にのっとりながら、個人の自由意思を認めることと、その個人の意思への介入作用とが、どのようにして両立することができるのかという難問に取り組みながら、「教育(エアチーウング)」、「教授(ウンターリヒツ)」などの教育学の主要な概念を定義していこうとしていた。
[宮寺晃夫]
そうした「講壇教育学者」とよばれる人々のなかで、最終的に教育学を自由意思の哲学から切りはなして、自立した学問に仕上げていったのはヘルバルトである。教育学は、子供の頭のなかの思想界を、どのように形成していくかという実際的な問題とかかわる学問であり、子供の側に自由意思があることを認めてしまえば、形成作用そのものが成りたたなくなってしまう。思弁的な議論をするのが教育学なのではなく、思想界がどのようなメカニズムで動いているのかを探ることこそが、教育学の課題である、とヘルバルトはみなした。その課題を、ヘルバルトは、独特の表象力学の理論を用いて果たそうとした。それは、子供が獲得する知識を表象(イメージ)に分解して、表象と表象との結合や反発の自己運動として、頭のなかの思想界を説明していくという理論である。この理論によると、意思のような力も、表象の結合の結果生まれてくる力である、ということになる。教授のような、直接的には知識の伝達を課題とする作用も、表象の結合のさせ方しだいで、意思の教育にもつながっていく。「教育していく教授」の理論、つまり教育的教授論がヘルバルトの教育学の核心にあった。
ヘルバルト晩年の著作『教育学講義綱要』では、「教育学は、教育の目的を倫理学に依存し、教育の方法を心理学に依存する学問である」と規定されている。こうした二面的な性格づけは、教育学という学問を一種の応用科学にするとともに、国家などから特定の目的が教育にもちこまれることを許すことになった。19世紀中ごろから後半にかけてヘルバルトの後を継いだツィラーTuiskon Ziller(1817―1882)、ラインWilhelm Rein(1847―1929)たちは、「ヘルバルト派」とよばれる。彼らによって、教育学は教授技術のための学問としての性格をいっそう強めたばかりでなく、すべての教授が目ざさなければならない道徳的な目的が、郷土への愛情などというナショナリズムの教育目的と結びついていくようになっていった。ヘルバルト派の教育学は、日本にも明治後期に紹介され、それ以前に推進されていた開発主義の教授法にかわって、公教育の現場に大きな影響力を及ぼした。小学校の一時間一時間の授業は、「予備・提示・比較・総括・応用」の5段階をおって進められるようになり(五段階教授法)、公教育の定型化が促されていった。また、「修身」を首位の教科とする教科科目の編成に、裏づけが与えられていったのである。
[宮寺晃夫]
19世紀の後半は、労働者が階級意識に目覚め始め、社会主義思想が国民大衆の間に少しずつ浸透するようになった。それに対抗する自由主義思想も起こり、社会全体の統一性が失われていった。このような危機的な社会状況のなかで、教育研究においても、これまで「教育学」の名のもとで教育の実践に規範を一律に掲示してきたことに対して、疑いが抱かれるようになった。複雑化した社会状況を背景にして、ドイツ人のディルタイは、「どのような社会にも普遍的に妥当であるような教育学はありうるのか」という問いかけをしている。ルソーのように、自己の欲望を抑えられるような人間像を理想としたり、ヘルバルトのように、道徳的性格を備えた人間像を理想としたりするのは、ディルタイからすれば、それぞれの社会の歴史的状況のもとで必要とされたことであって、どのような教育目的も普遍的にあてはまるわけではない。これまで人々が考えてきた教育の課題は、歴史から与えられてきたものにすぎない、とディルタイはみなした。
こうした歴史主義・相対主義の立場にたちながらも、ディルタイは、「生きる」という根本的な、ある意味では生物学的な本性をすべての人が共有していること、そして、他者に対して連帯感を抱いていく根本的な傾向が人間にはあることを認め、そうした「心情」をより道徳的な方向に育てていくことで、社会共同体の再建を目ざそうとした。教育に普遍的な目的があるとすれば、文化それ自体というよりも、文化を生み出していく人間の精神にまでさかのぼらなければ、探しあてられないと考えたのである。
[宮寺晃夫]
アメリカのプラグマティズムの哲学者として名高いJ・デューイも、社会主義や進化論などの新しい考え方がわきおこった19世紀後半の思想状況のなかで、さまざまな人々から豊富な刺激を受けながら自分の思想をつちかっていった。19世紀末には、シカゴ大学の付属小学校で児童に実験的な教育をこころみ、その成果を『学校と社会』(1899)で公表している。この本でデューイもまた、共同体、つまりコミュニティの崩壊を教育の問題としてとりあげている。数世代前の人々は、同じコミュニティのなかで生産と流通と消費をともに分かちあって生活してきたが、工場制度の浸透に伴って、生産は都市に集中し、流通も集約化され、子供たちにとって、自分たちの消費生活が何によって、まただれによって支えられているのかが実感できなくなってしまった。そうした社会認識の欠如を、デューイは、学校のなかに手作業をもちこむことによって、埋めあわせしようとしたのである。子供たちは、綿つみ仕事から服地の生産までの一連の手作業を課せられ、このプロセスで人類の知識・技術の歴史的な進歩のプロセスを学びとり、分業と協働の意義を実感し、さらに、目的をもって考えながら作業に集中していく習慣を身につけていく。これらの知識や資質は、産業社会に生きていくうえで欠かせない要素である、とデューイは考えたのである。デューイの教育思想は、「なすことによって学ぶ(learning by doing)」という標語によって語られることもあるが、この標語には、単に教育活動の方法原理の大切さが語られているだけではない。もはや、椅子にすわって教科書から学ぶだけでは、産業社会に生きていく人間の資質は形成することができない、という認識が込められているのである。ちなみに、この標語自体はデューイのものではない。
[宮寺晃夫]
ソ連の教育実践家マカレンコは、20世紀の前半に、社会主義国家の建設という新たな課題を担うことができる人間像を、描こうとした。マカレンコは、非行少年の再教育に携わってきた経験を生かして、子供たちに、自分勝手なエゴに基づく行為を許さない教育を実践した。ただ、それは教師から子供への一方的な従属を強制する管理主義の教育ではなく、子供集団のなかでの規律の維持を通してなされる教育であった。教師もまた、その集団の一員として参加し、学校全体がひとつの集団として活動し、ひとりひとりの子供には、集団への貢献がしつけられるのである。こうした、個人の利益よりも全体の利益のほうを上位に置き、個人の幸福も全体の利益が確保されてはじめて保障される、という精神が「集団主義(コレクトビズム)」である。この集団主義の精神は、「人間に対するできるだけの要求と人間に対するできるだけの尊重」を強調したマカレンコの思想のなかから浮かび上がってきたものである。
この集団主義教育は、第二次世界大戦後の日本にも紹介され、1950年代、1960年代の生活指導の方法論として影響力をもったことがある。学級のなかにいくつかの班をつくり、「核」とよばれるリーダーのもとで集団としての行動をしていくなかで、子供たちひとりひとりに個としての自覚を促し、集団の一員としての態度を育てていく。「一人はみんなのために、みんなは一人のために」は、この生活教育運動を推進した教師たちが好んで口にした標語であった。このような実践は、社会主義社会に見合う人間像の創出をねらいとしていたというよりも、自分本位の生き方で退廃した青少年文化への対抗策として、日本の教師たちがマカレンコから学びながら編み出していったものである。
[宮寺晃夫]
20世紀を目前にして、スウェーデンの社会運動家エレン・ケイは『児童の世紀』(1900)を書いている。そのなかでケイは、きたるべき新しい世紀には、子供が大人たちの勝手な支配から解放され、子供の幸福が真に保障されることになるであろうと予言した。もっとも、ケイの趣旨は、優秀な種だけを後世に残すように、社会が優生学の発想を採りいれるべきである、ということにあったのであり、問題を含んでいた。ケイの予言どおり20世紀には、子供は児童労働から解放され、学校教育が保障されるようになったばかりでなく、ムチと罰で学習を強制されるような教育の方法から解放されていった。しかし、そうした教育の改革が真に子供の幸福をもたらしたかどうかは、別の問題である。
19世紀から20世紀にかけて、「新教育」あるいは、「改革教育」を標榜する教育の実践家や理論家が世界各地に現れた。彼らが共通にいだいていたのは、子供の教育法を改革することによって、社会そのものを改革していくことであった。ドイツでは、ケルシェンシュタイナーが、デューイが唱えた活動主義教育を、将来の国家・社会の担い手としての「公民」形成に応用していこうとした。彼は、将来の学校は「作業学校(アルバイト・シューレ)」でなければならないとした。子供は、作業に取り組むなかで、作業が要求する「事物に即した考え方」をすることに習熟するだけではなく、勤勉さという徳や奉仕の精神をも身につけていく。作業の道徳教育的な効果に、ケルシェンシュタイナーは注目したのである。また同じドイツで、子供たちを都会から引き離して、郊外の学校に入れ、そこでの集団生活を通して将来海外に雄飛していく人材を訓練していこうというこころみも盛んに行われた。このような学校は、「田園教育舎」とよばれた。
国家目的と結びついた教育改革とは反対に、社会の現状に飽き足らずに、社会体制の変革を教育改革に託す人々もいた。イギリスの新教育の一翼を担ったニールAlexander Sutherland Neil(1883―1973)はその典型である。ニールは、支配する階級と支配される階級とに分かれてしまっているイギリスの社会をそのまま反映している教育状況を改革しようとした。そのために、ニールは、将来の子供たちに、人を支配しようとする気持ちや、人に依存して生きていこうとする気持ちが芽ばえないようにすることが重要だと考えた。歪んだ気持ちが芽ばえてしまうのは、子供が家庭や学校で、道徳や宗教を注ぎ込まれた結果、かえって罪悪感を抱くようになってしまったからである、とニールはみなした。とくに子供は、性に関する考え方と行動について、潔癖さのみが期待されてきたため、その抑圧から、虚偽に満ちた生き方をしてしまうことになる。そこで教育の課題は、なにより子供を抑圧から解放することでなければならなかった。ニールは、自分で設立した学校のサマーヒル学園で、出欠をとることを廃止したり、喫煙を許したりするなど、生徒たちの自由な判断を最大限認めた教育環境をつくった。ニールの実践に思想的なよりどころを与えたのは、フロイトの弟子で精神分析の技法を開発したW・ライヒであった。ライヒは性の解放と政治的解放とを結び付けた左翼系の精神分析家として知られていたが、ニールもまた、抑圧からの解放によって自由人をつくりだし、その自由人たちの共同体として社会をつくりかえようとしたのである。サマーヒル学園は1921年に設立され、ニールの死後、2000年現在なお自由教育のモデル校として存続している。
[宮寺晃夫]
「新教育」の名のもとでの教育改革運動のうねりは、日本にも及んでいる。それは主として大正時代に集中しているので、「大正新教育」とも、「大正自由教育」ともよばれるが、その発端は、明治時代末期の画一主義的な教授法への改革として始まった。日本の新教育運動の先駆者の一人の樋口勘次郎(1871―1917)は、児童たちを学校の外に連れ出し、都市のさまざまな光景や文物にふれながらの遠足をさせ、後日そのときの観察結果を材料にして授業を行うというような実践を、すでに明治30年代にしている。経験や活動を通しての授業である。また、この時期に、これまで教師の側からのみみられてきた授業を、子供の側からみていくような発想法、つまり「児童中心主義」の発想も現れている。それに伴い、「学習」ということばが教育用語のなかに登場するようになった。
「学習」も、「教育」と同じように、漢語、日本語として長く使われてきたことばであるが、明治末期から大正期にかけて、英語の「ラーニングlearning」の意味を伝えるための翻訳語として転用されていくようになった。樋口は、『統合主義新教授法』(1899)で、「教授が学問を児童に課するは、之により児童を刺激して、ある種の活動をおこさしめ、由(よっ)て以(もっ)て児童にある種の発達を遂げしむるものなり」と述べ、「ラーニング」に対応する日本語として「学問」をあてている。谷本富(たにもととめり)(1867―1946)は、『新教育講義』(1907)で、「教授の原則は生徒を輔導(ほどう)して自ら学ばしむるにあり」と述べて、「自学」をもって「ラーニング」にあてている。それに対して、及川平次(1875―1939)の『分団式動的教育法』(1912)になると、「学習の習慣がつくられておりませぬから、児童は卒業まぎわまで些細(ささい)の事に教師の手を煩わし、教師の手を離れては全く独立研究する力はありませぬ」と述べて、子供に自ら学ぼうとする習慣をつけていくことの必要性を説き、「学習法」という教授法を提案している。そして、大正自由教育運動の理論的な到達点の一つである木下竹次(1872―1946)の『学習原論』(1923)では、「学習」がキー・ワードとなって教育と教授の課題が語られていくようになる。木下は、「吾々(われわれ)は考えることを学び、鑑賞することを学び、行動することを学び、心理学的に云えば学習は心的作用の全体と関係して居る。生理学的に云(い)ふと生活の向上を図ることで自ら求めて善を行ふことである」と述べている。
このように、「学問」と「自学」を経て「学習」という用語が使われるようになった。それまでは、「教授」ということばが示すように、教師の側からの教えるという行為が主流であったが、「学習」ということばの登場によって、子供の側に視点を置いての学ばせるという教師活動が重要とされるようになった。前述で取り上げた書物の著者は、いずれも日本の新教育運動を理論面で指導した研究者である。
[宮寺晃夫]
第二次世界大戦後、教育方法の改革に国家が本腰を入れて取り組むようになるきっかけをつくったのは、ソビエト連邦による世界最初の人工衛星の打上げ成功(1957)であった。アメリカは、この「スプートニク・ショック」によって科学技術の立ち後れを思い知らされ、理科や数学などの自然科学系の教科をはじめとして、各分野の教科でいっせいに内容の高度化を図ることになった。この傾向は、その後1960年代にかけて世界的な傾向となり、「教育の現代化」とよばれた。アメリカでは、とくに物理、科学、生物、地学の領域からなる理科において、それぞれに対応する科学分野の最先端の成果を、大学のみではなく、小学校・中学校の教科内容にも反映させる努力がなされた。この分野の教育方法改革に主導的な役割を果たしたのが、ハーバード大学教授のJ・S・ブルーナーであった。ブルーナーは、デューイの活動主義・経験主義の教育理論にのっとった従来の教育方法を改めて、認知心理学に基づく「ニュー・ルックNew Look」の教育方法を提案した。
ブルーナーは、大きな影響力をもった著書『教育の過程』(1960)で、「どの年齢のだれに対しても、どんなものでもそのままのなんらかの形で教えることが可能である」という確信のもとで、「教材の構造化」の方法を提起している。それは、活動主義・経験主義の方法のように、知識の範囲を子供の経験の世界のなかだけに限るようなやり方を改めて、科学の系統性に従い、最先端の科学に至るまで、子供に習得させるべき基礎的な知識を配列していくやり方である。その際、知識を構成する概念を、幹に相当するものと、枝に相当するものと、葉に相当するものに区別して、それぞれの重みづけを変えながら全体を構造づけていくべきである、と主張した。幹にあたる基礎的、基本的な概念を確実に理解させることが重要で、それは将来いっそう複雑な問題を解いていくときの鍵になる、とした。そうした基礎的、基本的な概念を学習させていくために、学習を「何かのためにする学習」から、「それ自体のおもしろさのためにする学習」にしていく必要性を強調し、「内発的な動機づけ論」を唱えた。
教育の現代化は、日本の教育課程行政にも影響を及ぼしている。1960年代には、経済の高度成長の要請とも呼応して、理科などの自然科学系の教科や、国語・数学(算数科)などの基礎学力系の教科内容が重視され、配当時間数が多かったが、第二次世界大戦直後に復興した「新教育」の目玉的な教科であった社会科は、配当時間が削られたばかりでなく、活動主義・経験主義の後退とともに、知識の記憶という側面に傾斜し、形骸化を余儀なくされていった。
教育の現代化は、子供に高度な内容の学習を求めるため、平行して教科内容の精選をも進めていかなければ、期待するほどには子供の学習意欲を喚起することにはならないのではないか、と指摘されてきた。1970年代には、この指摘のとおり、学習に無気力な子供が多くみられるようになった。そこで、「子供たちにゆとりを与える」という目標のもとで、学校での教育内容のなかで、教科以外の教育活動(「特別活動」)の時間が増やされたり、それぞれの学校が創意工夫をこらして自由に活用する時間(「自由裁量の時間」)が教育課程のなかで必修化されたりした。そうしたカリキュラム改革の延長上で、子供に「生きる力」をつけ、「心の教育」を実現していくための教育改革が、1980年代には、政府に直属する異例の審議会である「臨時教育審議会(臨教審)」を中心に展開されていった。その後の教育改革は、単に教育内容や方法の改革にとどまらず、教育制度や行政のあり方の改革をも含んだ、教育という社会システムの全般にかかわる規模で進められている。そしてそれは、20世紀から21世紀への国家・社会のあり方とも連動して、ますます政治課題化してきており、こうした動きは日本だけのローカルな現象ではなく、先進諸国がいっせいに取り組んでいるグローバルな現象である。
[宮寺晃夫]
近代教育の理念は、教育権や学習権の問題を究明することによっていっそう明らかとなる。自我の自覚は人権思想を生み、近代教育思想は、この人権思想に基づいて子供の権利を発見した。そして、この問題は教育行政理論において、国民の教育権保障のための公教育の組織・運営をその基本問題たらしめた。
教育権には普通「教育内的権能」と「教育外的権能」が所属する。前者は、教育活動における具体的な教育内容の決定と実施にかかわる権能であり、後者は、教育内容に関する教育行政権のことである。教育権は「教育をする権利」を意味する。これに対して学習権は、一般的には「教育を受ける権利」を意味し、日本国憲法第26条1項の教育に関する憲法上の人権に基づいて、教育を受けて学習する者の立場が自主的、積極的であるべきことを内容としている。
[大谷光長・神山正弘]
近代の初めに、一般的には子供の権利の承認が、また教育的には子供の教育を受ける権利、つまり学習権が発見された。この発見は二つの問題を含んでいた。第一は、子供の内面の形成にかかわる問題であって、教育は国家権力が干渉できない私事事項とされ、教育の私事性(市民社会において人を教育することは私事であるという考え)が求められた。第二は、教育方法における子供の自主性尊重の問題であって、詰め込み教育が強く否定され、また望ましい教育形態は、親や家庭教師による家庭での個人指導であることが主張された。
[大谷光長・神山正弘]
やがて、学校を必要とする社会事情が生じた。学校という教育機関で、近代教育の理念をどう生かすべきかの問題が、新しい教育課題となった。この新教育課題の解決において、公権力からの教育の独立と教育の私事性の組織化とが、依然として大きな比重を占めていた。学校は公費によって設置され、また公立学校は無料、子供の就学は強制されない、という認識が定着していった。そして、教育はもっぱら知育に限定され、公教育から宗教・道徳の教育が除かれ、徐々に教育の世俗性が浸透していった。このようにして公教育の輪郭がしだいに明らかにされたのである。
[大谷光長・神山正弘]
時代が進み、資本主義体制が成立し、さらに産業資本主義が確立するに及んで、近代教育思想の原則はすこしずつ変容していった。具体的には、大衆教育への国家介入が要請され、一つの公教育観が成立して、ここに従来の原則の大幅な修正の一歩が踏み出された。やがて18世紀後半から19世紀前半にかけて、産業資本主義の確立期を迎えたとき、大衆の教育機会の拡大が生じた。工場学校、若干の企業立工場学校などの設立が企画され、大衆教育のイニシアティブは旧勢力から新興ブルジョアジーの手に移行した。このようにして、資本主義的現実にこたえる公教育思想は、教育学者堀尾輝久(1933― )のいわゆる三重構造の特徴をもつことになった。すなわち、国家の教育介入を否定する考え方と、大衆教育への国家介入の考え方とが同居することとなった。ヨーロッパの先進国も19世紀後半に入るや、古典的市民社会は大きく転換し、独占資本主義の段階に進み、国家もまた福祉国家・大衆国家へと変貌していった。そして、しだいに労働者階級の自己教育思想が開花期を迎えた。と同時に、国家が道徳の教師として、大衆教育を指導するようになった。
[大谷光長・神山正弘]
日本では、国家の教育権が明治の欽定(きんてい)憲法(大日本帝国憲法)下において、教育大権ないし勅令主義という形で、教育の義務づけや内容決定を行った。国家の教育権が法制定に完全に貫かれていたわけで、各学校令(勅令)は教科目を規定する、ついでその委任を受けた文部省令が教則(各教科の要旨などを記入したもの)を決める、そして各学校はこの教則に基づいて、校長が教授細目(年間の授業内容の程度と配列を記入したもの)を作成する。教師は校長の検閲を受けて指導案を作成する。以上の記述からわかるように、天皇の教育大権が学校教育の隅々まで貫徹するように仕組まれていた。しかし第二次世界大戦後の日本の教育改革は、被教育者の自由を基本とするものであった。敗戦の苦しい体験のなかで、日本の教育は大きく自由主義・個人主義に転化していった。教育基本法の制定は、教育勅語失効を決議せしめた。教育の目的が自主的精神に満ちた個人としての人間の育成にあるという教育基本法の教育目的規定は、近代の教育理念である「教育の私事性」の確認以外のなにものでもない。
しかも、近代教育理念の「教育への国家不介入の原則」は、現教育行政制度の三大特色である民主主義、地方分権主義、一般行政からの独立主義からわかるように、国家その他の権力の介入を許さないことをたてまえとしている。また「教育の目的はあらゆる機会に、あらゆる場所において実現されなければならない」(教育基本法第2条)ということは、教育の非権力性の原理と国民の教育の自由とを述べていると考えられる。このようにみてくると、近代教育理念における教育権の特色は、現行の教育制度の中核となっている感さえする。
[大谷光長・神山正弘]
一般に、教育の理念が実現されるためには、それが制度化されることが必要である。理念に対応した制度が確立してこそ、人々はその理念の実現を期待できるからである。
[大谷光長・神山正弘]
近代の教育思想のもっとも本質的な部分は、子供の権利を承認することである。子供の権利を発達の側面から考察すると、それは、子供の内的諸力の全体的な発達保障を意味しており、またこの自由な発達は、教育機会の平等保障を必要条件とする。つまり、子供の権利の問題は、発達における子供の自由と平等の問題と密接にかかわっているのである。そして、このことの制度化における基本原則は、とりわけ教育の機会均等にみいだされる。
この教育機会均等の問題は、すでにドイツの宗教改革者ルターが提起している。彼は、子供たちが聖書を読み、神意を理解するために、彼らの就学を督励し、必要があれば強制的に無償で教育を行う必要性を説いた。また、フランス革命の有力な指導者の一人であったコンドルセは、教育を宗教団体の手から解放し、無償で全市民に教育の機会を与える公教育組織の樹立を提案した。しかし、18世紀後半のフランスの学校教育は、依然として特権的支配階級によって独占されていて、保護者の社会的身分・経済的地位などの外的条件による制約が多かった。この傾向は、とくに大学への進学の場合に著しかった。しかも、一般庶民は初等教育を受けることすら十分でなかった。
[大谷光長・神山正弘]
教育の機会均等は、国家がどういう形であれ、教育制度の構成と運営に参画することで達成される。このことは、義務教育の場合に明らかとなる。すなわち、国家の側からの教育の強制は、保護者がわが子に教育を受けさせる義務をもつという形で現れる。それは、国家が保護者に課する義務である。そして、義務教育は原則として無償教育であることから、国家の側に無償の公教育を提供する義務を負わせるものである。
[大谷光長・神山正弘]
教育の機会均等の問題は、統一学校の実現にかかわっている。統一学校とは、地位・階級・信条などのいかんにかかわらず、すべての国民が同一の平等な教育を受けることのできる学校制度のことである。ヨーロッパの学校発達史が明らかにしているとおり、最初に、各時代の支配階級の子弟のための大学から初等教育段階までの学校が創設され、そのあとで一般庶民のための初等学校が設立された。したがって、ヨーロッパの学校制度には複線型のものが多く、中等・高等教育機関と一般庶民の初等学校との連結は、簡単に実現しなかった。
統一学校に関する構想は、『大教授学』(1657)の著者コメニウスの学校系統論に始まり、熱意と真剣さをもってこれを国家の問題として取り上げたのは、フランス革命議会であった。しかし、その努力もむなしく、財政難のため結局は実らなかった。けれども、この提案、その努力は、その後欧米各国に受け継がれ、また人権思想が理解され普及されたこともあって、各国は統一学校による教育の機会均等を実現する努力を続けてきた。アメリカがいち早く単線型の統一学校体系を実現させた。また、1917年の革命後のソ連、第一次世界大戦後のドイツ、1944年バトラー教育法を制定したイギリス、1947年ランジュバン‐ワロン教育改革案を生んだフランスなどは、いずれも複線型の教育制度を廃止し、単線型のものを実現しようと試みた。これらの例は、国民教育制度が、子供の権利の確認に基づいて、教育の機会均等を制度化することによって成立・発展してきたことを物語っている。
以上述べてきた就学の督励、義務的で無償の教育の実施、そして統一学校の実現などが、国民教育制度の成立・発展の足跡である。
[大谷光長・神山正弘]
現代の急激な技術革新の進展は、社会の変化、人間の生き方の変化などをもたらした。社会や人間の生き方の変化などは、当然、教育の変革を必要とする。そして、教育の変革のなかで、とりわけ教育領域の拡大と生涯教育の諸問題が注目される。教育領域については、以前から家庭教育・学校教育・社会教育の3領域が語られ、論じられてきた。そこでは、学校教育は制度的教育として、また家庭教育・社会教育は非制度的教育として特徴づけられ、機能してきた。
豊かな物質文明のなかで生活することは、子供の成長・発達によい影響・感化を与えるかといえば、単純に肯定ばかりはできない。それは、現実に子供の非行の低年齢化、打算意識の増大、精神態度の脆弱(ぜいじゃく)化などからも理解できる。そして、改めて、家庭教育と社会教育の重要性、および両者と学校教育との統合が注目されるに至った。親も社会人も、学校教師と同様、未熟な若者の健全な育成に責任をもつことが、時代の要請するところとなった。
時代が人々に多様な生き方を求め、また高齢化問題に明るい解決を求めることもあって、「ゆとりと充実の生の過ごし方」をめぐって、社会教育がいっそう機能することが期待される。職業に従事する人は、新しい技術の導入と果てしない人々の願望とに対応していく必要から、専門的な知識・技能の学習を続行することが必要となった。また一般的状況としても、科学技術の急速な進歩、生活の多様化した社会、高齢化と余暇の拡大など、人々が生涯にわたり知識や技術を自ら学習していける組織・機構づくりが求められている。生涯学習は、これまでの制度化された教育への依存から、社会の教育機能の再編成を要請している。
[大谷光長・神山正弘]
日本の国民教育制度の成立事情は、ヨーロッパ諸国のそれと比較して著しく異なっている。なるほど、日本の学校制度のなかには、ヨーロッパの学校制度の模倣・移植が若干みいだされる。たとえば、統一学校がそれである。しかしそれは、見せかけの統一学校であったということができる。1872年(明治5)文部省は「学制」を発布し、統一的な国民教育制度を発足させた。けれども、そのための財政の裏づけは皆無であった。初等・中等・高等の3階梯(かいてい)の学校制度が、学区制によって全国統一的に実施された。思うに、統一的学校制度を実現しようとする努力は、それなりに評価されてよい。が、精神の伴わない形だけの模倣は、その後の国民教育制度の展開をゆがませてしまった。「学制」の趣旨は、身分・性別・貧富などを問わず、すべての国民が就学できる点にある。ところが、学校は、立身出世するため学問をするところであり、その意味で学校は、各人に役だつことを教えるところであるとされた。そのため、学校に必要な経費は受益者負担が原則とされ、また徹底した中央集権制が採用された。「学制」の内容を分析して気づくことは、子供の権利としての学習権はみいだされるが、それは「子供の自由」に裏づけられていないことである。教育費も無償でなくて、受益者負担であった。このようでは、教育の機会均等はしょせんたてまえ論の域を出るはずはなかった。
明治前期から後期、そして大正期、さらに昭和の初期、対日講和条約(1952発効)以前の中期を通して、統一学校の国民教育制度は一貫してその命脈を保ってきたが、各時期の特質でその中身は大きく変わってきた。そして、昭和も中期以後、つまり第二次世界大戦後占領下の、また講和条約以降の教育になって、初めて統一学校は子供の権利(自由)の実現を目ざし、近代教育理念の実現が課題となったのである。
[大谷光長・神山正弘]
日本の教育は、大きく分けて、まず大陸文化依存の教育時代、次に日本文化自覚の教育時代、そして西洋文化摂取の教育時代を経て、現代の高学歴の教育時代に達したとみることができる。以下に日本教育史を概観する。
[大谷光長・神山正弘]
古代から鎌倉時代までが、大陸文化依存の教育時代と考えられる。応神(おうじん)天皇のとき百済(くだら)から阿直岐(あちき)・王仁(わに)が来朝。552年には百済から仏教が伝来した。仏教の普及は学術・美術・工芸の進歩を促進した。聖徳太子は、607年ごろから隋(ずい)に大使・留学僧・留学生を派遣して、先進国である隋の政治・学事などを学ばせた。また、天智(てんじ)天皇によって庠序(しょうじょ)が創設された。庠序は日本初の官立学校である。
(1)奈良時代の教育事情 710年(和銅3)都が奈良に移り、奈良時代が始まった。遣唐使に随行して、留学僧・留学生が入唐(にっとう)し、また多くの碩学(せきがく)・名僧が来朝し、帰化した。701年(大宝1)の大宝律令(たいほうりつりょう)によって、日本最初の学制が敷かれた。そして、国都に大学寮1校、地方の各国に国学1校ずつが設置された。
(2)平安時代の教育事情 794年(延暦13)都は京都に移り、平安京と命名され、平安時代が始まった。この時代の特徴は、中国文化同化の傾向であり、漢文学が発達し、詩文集の編集がなされ、平仮名・片仮名の国字がつくられ、和歌・和文が発達した。教育の面では、官に登用する人材の発掘と養成を主目的とする大学寮・国学が、改革を繰り返した。しかし、その衰退を防止するまでには至らなかった。他方、空海が創設した綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)は、階級や僧俗を問わず世の人を教育して、盛んであった。
[大谷光長・神山正弘]
やがて世は日本文化自覚の教育時代を迎えた。それは鎌倉時代、南北朝時代から江戸時代までを包含している。1192年(建久3)源頼朝(よりとも)は鎌倉に幕府を創立した。鎌倉文化の特徴は、和漢混交の新文体に象徴される日本文化の自覚のなかにみいだされる。教育の面では、官・私立の学校が廃止され、学校以外、つまり家庭、学者の家、および寺院などでの教育が盛んになった。その際、寺院は主として初等教育にあたり、高等専門教育については禅宗の僧堂や勧学院がその中心であった。また社会教育においては、念仏宗・日蓮(にちれん)宗・禅宗などの仏教新宗派が民衆を教化した。そして、各地に文庫が設立され、書籍・絵画・器物などが収集・所蔵されて、多数の人々を啓蒙(けいもう)した。
(1)南北朝時代の教育事情 1336年(延元1・建武3)後醍醐(ごだいご)天皇は吉野(よしの)に移った。一方では、足利尊氏(あしかがたかうじ)が京都にあって光明(こうみょう)院を天皇として擁立した。いわゆる南北朝時代である。一般に、この時代は乱世に終始した観があるが、文化・教育の面から考察すると、国民の自覚、日本思想の独立がみいだされ、日本文化本位の教育への移行を看取できる。学問は、朱子学の研究が盛んである一方、『源氏物語』『古今和歌集』などの古典研究も盛んであった。『庭訓往来(ていきんおうらい)』は、庶民を主体とする当時の教育実践のようすをまざまざと思い出させる。そして、官立の教育機関はまったく廃絶し、わずかに僧侶(そうりょ)による児童教育、つまり寺院教育がその命脈を保っていた。
(2)室町時代の教育事情 1392年(元中9・明徳3)吉野の朝廷と京都の朝廷が合体し、足利氏が政治上の実権を握った。室町時代の幕開きであった。この時代は政変続出の、世にいう下剋上(げこくじょう)の時代であったが、庶民教化はその最盛期を迎え、社会教育もまた活発であった。また、下野(しもつけ)国(栃木県足利市)の足利学校は、儒学中心の教育を実施し、関東文教の中心的位置を占めていた。そして、天正(てんしょう)年間(1573~1592)に設立されたセミナリオ、コレジオは、キリスト教の伝道・布教だけでなく、また西洋の学術・文化の伝達のうえでも功績があった。家庭教育関係でいえば、家訓・『花伝書』などを活用して、人々の日常の心得、芸能の精進の方法などが教えられた。
(3)近世封建社会の整備・完成・崩壊 時代の進行とともに、近世封建社会は整備され、完成し、やがて崩壊していった。織田信長が安土(あづち)に築城した1576年(天正4)から、長い江戸時代を経て、廃藩置県によって新しい行政制度が実施された1871年(明治4)までの約300年の長い時代が、該当するのである。近世封建社会の人々にとって、身分は侵すことのできない絶対的なものであった。けれども、やがて商業資本主義・貨幣経済時代の到来・定着につれて、人々は身分制度が人間の自然に反することに気づき、その意味で武士中心の社会に虚偽的なものを感じ始めた。そこでまず、封建社会の主役を勤めた武士の教育について述べ、次に、庶民の教育を明らかにする。
(4)江戸時代の武士・庶民の教育事情 武士の教育機関としては、まず家塾と私塾とがあげられる。家塾は、幕府・諸藩に仕えていた儒官が、幕府・諸藩の内意を得て、旗本・藩士の子弟を教えるところであった。なかでも、江戸幕府が保護していた林家の家塾昌平黌(しょうへいこう)(昌平坂学問所)は最大のものであった。私塾では、中江藤樹(とうじゅ)・伊藤仁斎(じんさい)などの塾がその代表的なものであったが、幕府・諸藩に仕えなかった民間の有識者が任意に設けたのが私塾であった。次に藩学がある。藩学は、昌平黌の設営と前後して、諸藩がそれぞれの領内に設けたものであった。
庶民の教育には、もっぱら寺子屋があたった。寺子屋の教育内容は、主として読み・書き・算盤(そろばん)であったが、習字・お茶・いけ花・裁縫などを教えるところもあった。次に、寺子屋よりやや程度の高いものに郷学(ごうがく)があった。池田光政(みつまさ)が岡山藩内に設けた123の手習所などがそれである。さらに、近世の中ごろから成人の教化運動が盛んになった。幕府・諸藩は、教諭所および教諭書によって庶民の教化を図り、封建社会の秩序維持に努めた。江戸時代中期になると、石田梅岩を始祖とする心学運動が生じた。心学は、神道(しんとう)・儒教・老荘の学・仏教などに基づいて、聖賢の教えを平易に解説することを旨としていた。そのほか、二宮尊徳・大原幽学などの社会教化運動が活動していた。
[大谷光長・神山正弘]
1872年(明治5)「学制」が発布され、国民教育制度がスタートした。当時の日本の切実な課題は殖産興業と国民皆兵であった。この課題の達成をめぐる問題が、日本の近代教育制度の展開を特色づけた。
(1)明治5年の「学制」発布 「学制」はフランスの学校制度をモデルとし、またその功利主義的教育観は、アメリカから学んだものであった。1879年(明治12)教育令が制定され、それはアメリカ的自由を基調としたものであった。翌年に改正教育令が制定され、反動化の第一歩が始まった。すなわち教育の基本精神は儒教的道徳にある、という傾向が表面化してきた。この傾向は、1890年の教育勅語の渙発(かんぱつ)によって決定的となった。
(2)教育思想の輸入と教育方法の変遷 1879、1880年(明治12、13)ごろから、ペスタロッチの開発主義的教授法やH・スペンサーの功利主義的、自然主義的教育思想が輸入され、1887年になると、ヘルバルト派教育学説が紹介された。いわゆる五段階教授法(予備・提示・比較・総括・応用)が、教育実践の場で好んで行使されるようになった。
(3)実業教育の振興計画 明治政府は、資本主義的産業を促進して、富国の実現を期し、そのための実業教育を盛んにする計画をたてた。明治前期は、産業を促進する外的条件が十分成熟していなかったので、実業教育は期待するほどには進展しなかった。しかしその後、日本資本主義経済が発達するにつれて、実業教育は拡充の一途をたどることになる。
(4)教科書の検定制度と国定制度 明治期の教育において、教科書の国家統制の問題は重要な意味をもっていた。ひとことでいって、それは国民の思想を画一的体制化するのに一役買ったのである。1886年(明治19)教科書検定制度が制定され、しばらくこの制度が運用されていたが、1902年(明治35)教科書疑獄事件が発生したこともあって、翌1903年に教科書国定制度が発足した。この制度は1947年(昭和22)まで続いた。
(5)大正期の新教育運動と昭和期のファシズム化への傾斜 大正期の教育では、大正デモクラシーと新教育運動が特筆される。この時期の教育思想は、デモクラシー思想の導入と、児童心理の重視とをその両輪とする。このことは、ドイツのケルシェンシュタイナーの労作教育論やアメリカのデューイの生活即教育論などが紹介され、また国内でも八大教育主張などが提唱されたことなどから、うかがい知ることができる。そして、当時の教育界で話題になった自由選題主義作文、および雑誌『赤い鳥』の創刊は、明らかに児童中心主義的教育論に立脚するものであった。
資本主義の発達は、当然、高等教育機関を拡充させた。官立高等専門学校、旧制高等学校のナンバースクール以外の高等学校などが、質・量ともに拡充されたのである。しかし、1917年(大正6)から1919年3月まで、総理大臣の諮問機関であった臨時教育会議は、大正デモクラシーの風潮にはきわめて批判的であって、機会あるたびごとに天皇制国家主義に基づく倫理の確立を関係者に強いた。
1927年(昭和2)の金融恐慌、1929年の世界経済恐慌、1931年の満州事変の勃発(ぼっぱつ)、1932年の上海(シャンハイ)事変と五・一五事件、1936年の二・二六事件、1937年の日中戦争、1941年の対アメリカ・イギリス・オランダ開戦――昭和前期の日本は、上記の戦争と事件の連続そのものであった。したがって、この時期の日本教育は、ファシズムへの対応を軸として展開していた、といっていい。なかでも五・一五事件と二・二六事件は、日本の教育をファシズム化へと傾斜させたのである。そして1935年の教学刷新評議会の答申、および1937年の教育審議会の答申は、この傾斜をいっそう決定づけた。1940年に小学校が国民学校と改称され、「皇国民」の錬成が教育の目的となった。ただ戦争に勝ち抜くために、超国家主義化・軍国主義化が重点教育政策となった。
(6)戦後教育の出発 1945年(昭和20)8月、第二次世界大戦は、日本がポツダム宣言の受諾を回答、終結した。戦後の教育は1946年の日本国憲法、1947年の教育基本法、学校教育法に基づいて展開していった。まず、六・三・三・四制の学校制度が発足した。これは、教育の機会均等の理念の実現であり、男女共学を原則とするものであった。また新しい教科として社会科が誕生した。社会科は、学童たちに社会生活を全体的に理解させ、その変化・発展に参加する能力と態度の育成を意図した教科である。これに伴い、戦前の修身科は廃止されたが、1958年に小・中学校に「道徳の時間」が特設され、実施されることになった。
教育内容・方法は一変した。教育内容は、自主編成ということもあって、カリキュラムの型、編成の諸問題に始まって、教育内容の現代化・精選などの問題に取り組むまでになった。また教育方法においては、問題法、プロジェクト・メソッド、および討議法などを重視する単元学習が採用され、さらに問題解決学習、発見学習、範例学習、ならびに教育機器によるプログラム学習などが実施されてきた。そして、教育評価に関する研究が続けられた結果、客観的な学習評価の仕方が普及したのである。
また教科書検定制度は、国定教科書の廃止に伴って、第二次世界大戦後ずっと続いてきた。その間、検定機構の整備が繰り返しなされてきた。家永(いえなが)三郎著『新日本史』(高等学校用教科書)の検定をめぐって、1965年(昭和40)第一次教科書訴訟が、そして1967年第二次訴訟、1984年第三次訴訟が起こされ、1997年8月、第三次訴訟が終審し、32年にわたる訴訟が終結した。
[大谷光長・神山正弘]
〔1〕生涯教育 高学歴の社会において、学校教育は表面上、制度的、形式的にいっそう振興した印象を与えている。しかし、急激な社会構造の変化、技術革新の波、余暇の増大などは、人々に生涯教育の必要を痛感させるまでになった。限られた学校教育の成果だけで人生を乗り切ることは不可能であって、人は生涯にわたる職業専門的な知識・技能の獲得、社会学習の絶えざる受容、文化的・芸術的活動や社会奉仕的活動への参加を、自己の人生課題とすべき必要に気づいたのである。ユネスコの学習権宣言(1985)は、その思想の集約である。
〔2〕教育の病理現象 「豊かな社会」は、いくつかの重大な教育病理現象を生んだ。
(1)児童の非行の問題
(2)児童の生活体験不足の問題
(3)児童の学校不適応の問題
である。(1)は、家庭内暴力、校内暴力、暴走族、シンナー遊び、不純な性行動などにみられる。これらは、いずれも対症療法では解決が困難であり、構造的に正しく対応する必要がある。また(2)は、マッチでうまく火がつけられない、あるいは友達と思いきり遊び、高所に登ったり、幅の狭い所を歩いたりして、スリルと冒険心を満足させない、あるいは植物栽培や小動物の飼育で感じる新鮮な感動を味わえない、などにみられる。児童の生活体験不足の問題は、「サバイバル・アクティビティsurvival activity(生き残れる能力)」の形成・強化の提案を生んだ。子供が山野の自然のなかで生活し、鳥を友とし、木や草花の精を感じ取るなどの体験が、つまり学校外活動における体験が、その子供の人格形成に果たす役割の重要さに注目する必要がある。(3)は、いじめ、不登校、暴力など、能力・学歴社会のストレスを背景とする不適応の問題である。
〔3〕国際理解教育・平和教育・人権教育 日本が情報化時代のなかで世界に貢献し、発言するために、とくに
(1)国際理解の教育
(2)平和教育
の二つが必要である。(1)については、日本は資源に乏しいので、世界に貢献できることといえば、諸科学の基礎理論について優れた業績をあげることが考えられる。同時に対人関係の社会的技術の学習が肝要である。日本人は、島国のなかで生活してきたこともあって、外国語の習得や対人関係の諸技術の学習に関して、一般的に不得手であった。しかし、こうした状況を乗り越えて、日本人は今後ますます国際的に通用する教養や考え方を身につける必要がある。(2)の平和教育についていえば、日本は世界最初の被爆国であり、そのうえ戦争放棄を憲法にはっきりうたいあげている国であることからいって、人類の生存と繁栄のため、世界平和の実現に努めることは、日本人の使命であろう。平和の問題は、日本人がリードすることによって、世界の人々の心からの協力を得ることができる、と考えられる。人権教育については、国連の提起や児童の権利条約も踏まえ、より徹底した人権の理解と行動の教育が求められている。
[大谷光長・神山正弘]
次に、アメリカ、ドイツ、中国、ロシア、そしてインドネシアの教育について、沿革を眺めてみたい。
これらの国々は、いずれも過去・現在にわたって、日本と深いかかわりをもち続けている。アメリカの場合、デューイやキルパトリックの教育理論、および第二次世界大戦後来日したアメリカ教育使節団の教育改革に関する提言などが考えられる。またドイツの場合、ドイツ教育学の日本教育理論への影響は、とくに教育哲学の分野において著しい。ペスタロッチやフレーベルの教育思想、および精神科学的教育理論などは、わが国の教育哲学の発展に影響を与えてきた。そして中国の場合、儒教文化の渡来は、日本人の精神態度を形成するのに貢献してきた。中国からの長い文化の影響を抜きにして、日本人の精神形成を述べることはむずかしい。さらに、ロシアの場合、教育問題における日本のそれとの関係は、ひとことでいえるほど単純ではない。しかし、個人と集団の関係、教科外活動論(学校外活動論)など、体験を基盤とする旧ソビエト教育理論は、日本の教育問題の解明に貴重な視点を与えてきた。最後にインドネシアの場合、1942年から1945年にかけて、第二次世界大戦下における数々の不幸が思い出される。独立後のインドネシアは、建国の大原則のもとで教育の基礎理念を明らかにし、教育問題の解決に積極的に取り組んでいる。
その国の教育はその国の国民を形成するもっとも大きな要因であることを想起すれば、その国の教育の歴史を正しく把握することが必要であろう。
[大谷光長・神山正弘]
1620年に始まるピューリタンの北部ニュー・イングランドへの移住は、アメリカ植民地建設の第一歩であり、アメリカの教育もこのときに始まった。1642年義務教育令が公布され、1647年には各タウンに初等学校の設置が義務づけられた。子供は読書能力や有用な手職技能を身につけることができた。それに先だって、1636年にハーバード・カレッジが開設され、このカレッジ入学のための準備教育をする中等学校としてラテン・グラマー・スクールが設立された。南部は、農場での働き手が不足していたので、イギリス本土から「年期契約奉公人」が送り込まれた。これらの人々の多くは、おおむねわが子の将来に対して無関心であった。教育は政府の責任ではなく、これらの子供のための教育は徒弟制度や、若干の慈恵学校、農場跡学校old field shoolsで行われた。
[大谷光長・神山正弘]
18世紀の初期、北部ニュー・イングランドでは、商人階級が新興勢力として登場した。このことは、北部の社会や文化・教育を大きく変えた。商業的、現実的関心が従来の宗教的関心にとってかわった。カレッジ入学の準備教育を主としたラテン・グラマー・スクールは衰退し、実際的な教育内容(航海術、測量術、簿記、フランス語、スペイン語など)を教えるアカデミーが設立された。また、高等教育機関の教育内容の再編が実施され、伝統にとらわれない新しい型のカレッジ(キングズ・カレッジ――後のコロンビア大学、フィラデルフィア・カレッジなど)が創立された。
南部では、黒人奴隷制が導入された。この導入は従来の南部の労働構造を変え、社会体制の変革を促した。バージニア州では10万エーカー(4万0468ヘクタール)あるいは30万エーカーの農園所有者が出現し、やがてこれら大地主が政治の支配者となった。彼らは自分の子弟に家庭教師をつけたり、またヨーロッパの学校、大学に遊学させたりした。他方、奥地に逃げ込まざるをえなかった小農民階級は、辛い開拓生活を余儀なくされ、また子供の教育のため、自ら管理・運営する学校(地区学校district school)をつくった。
1776年7月4日、ジェファソンは、人間の自由・平等を基調とする「独立宣言」を起草した。1783年、アメリカ合衆国が正式に承認された。1787年5月25日、フィラデルフィアで合衆国憲法制定のための会議が開かれた。そして、北東部商工業者や保守派政治家が、この合衆国憲法の制定・批准、新政府の実現に尽力した。やがて彼らは国事を支配し、教育・文化のうえでの特権をも享受するに至った。ここにきて、独立革命時における教育機会の拡大、および公立無償の学校制度への情熱は後退し、為政者の、教育へのエネルギーは、もっぱらアカデミーの衣替えとカレッジの拡充に向けられていった。
[大谷光長・神山正弘]
アメリカは18世紀後半から、産業革命およびそれに付随する経済活動の拡充で目覚ましい発展を遂げた。もっとも、1819年、1837年、1859年と近代的な経済恐慌にみまわれてはいる。一般的にいって、アメリカの近代産業化は、工場制度の拡大と工場労働人口の増大とを促進した。それは新たな社会階層の出現を意味している。アメリカ教育史のうえでは、公教育制度の成立がみられる。北部は、そして南部の場合には北部よりかなり遅れてではあるが、立法措置や公教育の行政機構の整備などによって、無月謝制学校の設置、特定の宗派・党派に偏しない中立的教育内容の確保、ならびにすべての市民の子弟の義務就学制の徹底を進めた。
1860年、共和党のリンカーンが第16代大統領に選出された。1861年、南北戦争が始まった。このアメリカ史上最大の内乱は、1865年北部の勝利となって終息した。南北戦争後の再建期のなかで、とくに重要となるのは、人種差別や奴隷制などによって公教育の機会を与えられてこなかったアフリカ系アメリカ人の教育問題であった。なかでも、解放民局の活動は目覚ましく、3000の学校を設置した。コモンスクールのモデルに従ってカリキュラムも整備し、アフリカ系アメリカ人教育の普及に努めた。
南北戦争の余塵(よじん)も収まり、初等教育の義務制化が各州に普及し始めたころ、ペスタロッチ主義のオスウェゴー運動やヘルバルト学派の五段階教授法など、ヨーロッパ教育思想に基づく教育改革運動が起こった。しかし、デューイが実用主義的教育思想の教育論を精力的に展開したこともあって、アメリカ教育はヨーロッパ教育から直輸入することを取りやめ、独自の教育理論に基づく傾向をとり始めた。また教育制度面についていえば、公立ハイスクールが急速に増え、被教育者の進学増大の受け皿となった。そして州立大学が普及し、1910年代なかばには、州立大学は53校に達し、学生数も13万人を数えた。1876年創立のジョンズ・ホプキンズ大学は、アメリカ最初の本格的大学院を設置し、その後、19世紀末までに15の大学院が増設されたのである。
[大谷光長・神山正弘]
20世紀に入ると、アメリカは典型的な産業ブルジョアジーの国家体制を成立させ、資本の独占化の兆しがみえ始めた。第一次世界大戦後のアメリカの教育政策は、次の3点において特徴的である。
(1)教師の忠誠宣誓規定。
(2)教科書の統制。とくに歴史教科書の規制が厳しかった。
(3)進化論禁止運動が目をひく。進化論は人間を動物の次元でだけ理解しようとする、それは人間の尊厳に考慮を払わないという批判が、その運動を支えていた。
思うに、これらの教育政策は、階級対立の激化や帝国主義戦争の危機を克服するために、国家主義的愛国心の育成と、アメリカニズムによる体制強化の必要から生まれたものであろう。
1929年10月、大恐慌がウォール街を襲った。この恐慌の破局的危機に直面して、当時の教育者たちは、あるべきアメリカの民主主義と教育のあり方とを追究する姿勢をとり始めた。この姿勢は、とりわけ進歩主義教育の台頭と、カリキュラム改造運動の展開とのなかにみいだされる。前者は、社会的・政治的圧力によって上から抑制されてしまった。また後者は、カリキュラムの類型・構成方法などについて多くの優れた業績を残した。
[大谷光長・神山正弘]
1941年日米戦争が勃発(ぼっぱつ)し、1945年戦争は終結した。第二次世界大戦である。アメリカは戦勝国として、世界のリーダーの地位についた。
第二次世界大戦後のアメリカの教育政策の特色は、戦中・戦後一貫している点にある。具体的には、以下の3点があげられる。
(1)大衆路線の教育構想であって、すべての青少年が最低12年間の学校教育を受けることができる。また、ハイスクール卒業後、1年ないし2年の教育が、希望者には公立教育機関において無償で提供される。
(2)エリート主義に立脚する能力主義構想であって、科学的天才に対する連邦政府の奨学金計画などがその一端である。
(3)反共主義の鼓吹であって、アメリカ民主主義が反共の原則を土台としていることを明らかにしたのである。
1950年6月、アメリカは朝鮮戦争に介入した。この時期からアメリカの教育は国防の道具と化した。しかも、反共イデオロギーの徹底化がその主要課題であった。1957年のソ連のスプートニク打上げの成功は、ソ連に対する対抗意識を盛り上げ、またソ連との軍事科学競争を激化させ、ついに「科学技術エリート」の養成を緊急教育課題たらしめるに至った。1957年から1958年にかけて、ハイスクールのカリキュラム改造運動が生じた。その結果、従来の生活カリキュラムから学問中心のカリキュラムへと変貌(へんぼう)した。1960年代に入ると、ケネディ、ジョンソン政権は、アメリカのいま一つの重要問題に取り組むことになった。すなわち、現代の貧困問題にどう対応すべきかがそれであった。65年、初等中等教育法、高等教育法が成立した。初等中等教育法は、貧困家庭の子弟の教育援助を規定し、また高等教育法は、貧困家庭の子弟のうち能力のある者に対して、教育の機会と奨学金貸与をうたっている。
いまひとつのインパクトは、教育における人種差別の撤廃であった。1954年のブラウン判決において、「分離すれども平等」論が否定され、ここに人種統合教育の新しい出発点が築かれた。64年の公民権法の制定もあり、「積極的類別」が推進された。
1970年代は、全障害児教育法(1975)の制定はあるもののニクソン政権の下で連邦教育費支出減などの反動的措置が目だった。
1980年代に入り、「危機に立つ国家」レポートを契機に「上からの教育改革」が推進されたが、後半に入り「下からの教育改革」が追求され、クリントン政権の教育改革政策へ引き継がれた。
[大谷光長・神山正弘]
ドイツの教育理解は、まずドイツ教育史を知ることによって可能である。9世紀に成立した東フランク王国は、ほぼ第二次世界大戦後の旧西ドイツの地域を領土とし、962年に神聖ローマ帝国と称せられ、その後領土を拡張しながら、10世紀ごろには全ヨーロッパの指導的地位にあった。11世紀から13世紀にかけて、司教座寺院学校が普及し、また世俗的目的をもった学校(外校schola exterior)が設立された。14世紀には市当局が管理する学校が誕生し、14世紀から15世紀にかけて各市に書き方学校(scrifscola、のちに寺子屋式の私塾)が生じた。書き方学校は主としてドイツ語の読み方・書き方を教えた。そして1347年ボヘミア王国にプラハ大学が開設され、16世紀の初めごろまでに20の大学が設立されるに至った。
[大谷光長・神山正弘]
16世紀のドイツ最大の事件は宗教改革である。宗教改革は当の宗教界にはもちろんのこと、また学校教育にも一大衝撃を与えた。大学の側では、ウィッテンベルク大学が学制を改革し、また若干の新教大学が創立された。そして、大都市・小都市において、新教ギムナジウムが設立され、また農村において、教義問答書学校、村落役僧学校が開設されて、大衆の福音(ふくいん)主義的教化に一役買ったのである。
17世紀、領邦国家時代を迎えたドイツは、各領邦(州)での独自の実権をもつ小絶対君主が君臨した。人々は、各領主の搾取と圧迫に苦しむなかで、17、18世紀の合理主義・ロマン主義思想の開花の準備をしていた。すなわち、ドイツ中部地方チューリンゲンのワイマールやゴータでは、近代教授法の創始者であるラトケの進歩的教育思想に基づいた教授活動が実践されたのである。プロイセンでは、フリードリヒ1世が1694年にハレ大学を創設した。またフリードリヒ・ウィルヘルム1世は、全農村と農民層に対して強制就学令(1717)を公布した。そしてフリードリヒ2世は、一般地方学事通則(1763)およびカトリック派地方学事通則(1765)を発布して、近代義務教育制度に法的根拠を与えた。彼の死後、高等学務局が設置されたり、またプロイセン一般国法典が制定されたりして、しだいにプロイセン公教育制度が確立していった。そして、フリードリヒ・ウィルヘルム2世がプロイセン教育体制の総仕上げをした。彼は高等学務委員会設置令を制定し、近代国家にふさわしい統一的教育行政機構をつくったのである。
[大谷光長・神山正弘]
19世紀のドイツは、フランス革命とナポレオン戦争への対応で多忙であった。なかでも、プロイセンはナポレオン戦争によって大きな痛手を受けた。ドイツの重要課題は、従来の封建的社会機構を資本主義社会へどう順応させるか、ということにあった。確かに、ドイツに自由主義と民主主義を根づかせようとする動きもあったが、1848年のドイツ革命が君主制を擁護し、また貴族・地主層と妥協したブルジョアジーが政治上の実権を得て終結したこともあって、「新時代」への幕開きになお10年を要した。1858年、王弟ウィルヘルムが摂政(せっしょう)となり、「新時代」が始まった。そして、ドイツは1870年プロイセン・フランス戦争で勝利を収め、1871年に念願の統一的なドイツ帝国を実現した。
このドイツ帝国を支配したのは、絶対主義的君主のプロイセン国王であった。教育に関する権限はおおむね各領邦(州)にゆだねられていたとはいえ、それはドイツ帝国の政策を反映するものであった。1918年11月ドイツ帝国は崩壊するが、その間の教育のおもだった動きは、以下の3点に集約できる。
(1)補習学校の就学義務化の動き
(2)従来の中等学校カリキュラム・制度の改善
(3)統一学校実現の要望
である。
[大谷光長・神山正弘]
1914年に始まる第一次大戦は、1918年11月には終結し、ドイツは共和国に変貌した。1919年8月、ワイマール憲法が議決された。青少年の教育を公立学校で行うこと、就学義務制を庶民学校と補習学校で実現すること、統一学校の原則を不動のものとすること、学校教育を超宗派的なものにすること、子供を酷使と放任から擁護することなどが約束されたのである。このワイマール期の教育は、20世紀初頭のドイツ教育改革運動を無視して語ることはできない。この改革運動は、新人文主義的教育理論に依拠して、一方ではヘルバルト派の教育理論を批判し、また児童中心主義の立場から主知主義的教育論を攻撃し、他方では経験知・生産的能力の発達を重視するものであった。教育改革運動はワイマール共和国においてみごとに開花し、結実した。1919年の、独自の人間学(人智(じんち)学)に基づく教育実践家ルドルフ・シュタイナーによる「自由バルドルフ学校」の創設、および1920年に復活したライプツィヒの合科教授などがそれである。
[大谷光長・神山正弘]
1933年1月30日、ヒトラー内閣が成立した。この日はワイマール共和国崩壊の日でもあり、したがって議会制民主主義時代の幕切れの日でもあった。ヒトラー政権は、民主主義的勢力による国民的組織を禁止して、一党支配の国家体制を築くことに専念した。教育もまた、そのことへの協力を強いられた。すなわち、教育はナチス精神において、青少年を民族と国家へ奉仕する教授・訓練を旨とすることとなった。その結果、学校の自治や教師の教授の自由はまったく影を潜めてしまった。
1939年、ドイツ軍はポーランドに侵入、その戦いは第二次世界大戦へと拡大していった。1945年5月、ドイツは連合国側に無条件降伏し、アメリカ、イギリス、フランス、ソ連の連合軍によって分割統治されることになった。1949年に西ドイツ(BRD)、東ドイツ(DDR)がそれぞれ独立国家として誕生した。ドイツは破壊と焦土のなかで、連合国軍の監視下において再建の作業に着手することを余儀なくされた。そして新生ドイツは、国内のナチス残存勢力の一掃に努めながら、占領統治にあたった連合国軍の政策に対応していった。
[大谷光長・神山正弘]
第二次世界大戦後、東ドイツ(ソ連占領地区)においては、着々と地方自治機関の建設が進行して、ソビエト的民主主義による国家機構が実現していった。西ドイツ(アメリカ・イギリス・フランス3国占領地区)においては、1946年8月に連合国軍による対ドイツ教育政策の基本方針が示され、政治的・道徳的再教育による正義の原理の回復が求められた。アメリカ教育使節団は、アメリカ占領地区の教育事情を視察して、そのリポートを提出した。それは日本の場合と同様、強制力をもち、内容もほぼ似通ったものであった。ナチズムの根絶と民主主義の発展とを教育の基本線とすること、単線型の統一学校制度を実施すること、教育の機会を拡充し、その均等を保障すること、ならびにアメリカ流の社会科を教科目として採用すること、などがうたわれていた。
やがて東西の冷戦が激化し始めた。1947年のトルーマン宣言およびマーシャル計画を通して、西側の対ドイツ政策はソ連の協力を拒否するまでになった。西ドイツは西側防衛共同体の一環に組み込まれ、その時点で東西ドイツの統一構想は絶望的になった。1949年5月アメリカ・イギリス・フランス地区ではドイツ連邦共和国基本法が公布され、同年9月にドイツ連邦共和国(西ドイツ)が発足した。同年10月にドイツ民主共和国(東ドイツ)が成立し、東ドイツはソ連の傘下に入った。
[大谷光長・神山正弘]
旧西ドイツにおいては、1960年代の終わりになって、国民教育の計画拡充とその根本的改革とが始まった。旧西ドイツは11の州からなる連邦国家で、各州に広範な自治権が与えられていた。教育においても各州の独自性が尊重され、多様な教育制度が保障されてきた。各州は、学校制度を、各州の歴史的・社会的現実に即して自主的に形成し発展させてよい権利をもっている。しかし、これは同時に、弱点をもつことにもなる。つまり、教育政策の決定に際して、連邦政府の権限が僅少(きんしょう)であるため、学校行政の無統制が生じるおそれがある。1969年の基本法の改正ではこの点が考慮されて、教育計画の策定における連邦政府の権限の拡大がうたわれた。
第二次世界大戦後このかたの旧西ドイツ教育政策の経過を概観してみると、次の諸点に気づく。まず、戦争の残した諸事項の後始末のための政策、次に、学術と研究を表面に打ち出した政策と、教育内容の拡充・改善のための政策、さらに、青少年の学校紛争、高等教育の大衆化と生涯教育、ならびに青少年の学力低下と非行などへの対応的政策が、中心的教育課題であった。教育制度についてみると、初等教育では全日制義務教育年限を10年とする計画が進められており、前期中等教育では、中等教育の最初の2学年を観察指導段階として組織して、早期の進路固定化の弊害を防ぐ配慮がなされてきた。また後期中等教育では、ギムナジウムの現代化、民主化、効率化が試みられ、そして高等教育においては、1976年の「大学綱法」の制定によって、大学の組織・管理、その他の改革・再編が進められてきた。
[大谷光長・神山正弘]
1980年代のヨーロッパ激動の結果として、1990年10月、東ドイツは解体され、その五つの旧邦が復活し、統一されたドイツ連邦共和国に編入された。
その結果、これらの地域における教育制度の再編が行われた。初等、中等教育については、ハウプトシューレと実科学校を合わせた学校種とギムナジウムの二分岐型制度を導入した。教員給与の調整も進み、大学も統廃合され、それまでにはなかった高等専門学校も新設された。
[大谷光長・神山正弘]
中国の教育史は、1912年2月の中国最後の皇帝溥儀(ふぎ)の退位を境として、それ以前の教育史とそれ以後の教育の流れとに大別できる。
[大谷光長・神山正弘]
それ以前の中国教育史については、周代から清(しん)代に至る教育史を考えることができる。
(1)周・漢の教育事情 周は、殷(いん)以前2代の文化の集大成を手がけた。また周代には、上古の学制のほかに、周代(前11、12世紀~前256)に特設した学校があった。教育の対象は王室一家の太子・世子に限られ、将来天下に君臨する君子の育成を目的とした。やがて周の衰退期になると、周王室における帝王教育は影を潜め、かわって諸子百家の自由思想が諸侯の啓蒙(けいもう)・指導に一役買った。次の漢代(前202~後220)の教育は、官僚の教育である点に特徴をもち、漢の統一が悲願で、そのために周代の封建制度と、秦(しん)の始皇帝(在位前247~前210)が行った郡県制度をあわせもつ郡国制度を敷いた。そして、中央に大学を置き、地方に郡県の学校を設立して、有能な官吏の育成に努めた。漢は分裂し崩壊した。それとともに、国家権力を背景とする統制教育も、その基盤を失ってしまった。
(2)唐の教育事情 唐代(618~907)の教育においては、とりわけその学校制度が注目に値する。学校制度は複雑で、中央に政府直轄の学校が置かれ、正系として7学もしくは7館と、傍系として5種の学校があった。別に、地方政府の経営する学校も置かれ、その正系として3学および、傍系として2学があった。一般的にいって学制の特徴はその貴族的な点にみられる。つまり、子供の入学資格は親の階級身分によって制約されていた。しかし、唐代の科挙(かきょ)制度の確立は学校に甚大な影響を与えた。
(3)宋(そう)・明(みん)の教育事情 宋代の教育になると、すでに印刷術が普及していたこともあって、庶民文化が興隆した。多くの書院は、かつてのように出世を目的とする官吏の養成の場ではなくなって、人間教育の道場であることを目ざした。その教育は、聖人が人を教えるやり方を範とし、教師は己の人格の向上に努め、自律的な有徳の士が若者の教育にあたった。また、元朝を建てたモンゴル民族は武力においては優れたものをもっていたが、文化面になると漢文化が優勢であったこともあって、結局は宋代の教育の追随の域を出なかった。次の明代(1368~1644)は、漢民族がふたたび国家的に復活した時代である。それだけに、学校制度や教育方法は、唐・宋の時代のそれの整備と発展に努めた。一般に明代の学校制度は、政府の強力な教育統制を特徴としていた。このことは書院にも波及して、しばしば思想の統制・弾圧が強行されたのである。
(4)清の教育事情 清朝(1616~1912)は、反政府的な学者・知識人・文化人を厳重に取り締まった。たとえば、乾隆(けんりゅう)帝の禁書令はその好個の例である。けれども清末になると、知識人たちは西洋の諸学に理解を示すようになり、それはやがて封建的な国家体制に対する批判を生み、また近代国家としての中国誕生の動因ともなった。
(5)変転する中華民国の教育事情 1912年2月、中国の王室体制はその幕を閉じた。南京(ナンキン)の中華民国政府は、新しい国家建設に役だつ教育のあり方を明らかにした。その教育指針は、教育の根本を道徳教育に置き、自由・平等・博愛を根幹とするものであった。またそれは、実利教育と軍事教育で富国強兵の実をあげること、および芸術教育を振興してヒューマニズム精神を高揚することを企図した。しかし、この新教育指針は、15年袁世凱(えんせいがい)によって愛国・尚武などの封建的儒教倫理に改変されてしまった。
辛亥(しんがい)革命以後の軍閥の専政、打ち続く内戦、そして民生の病弊などは、一方において革命によって中国社会を変革しようとする民衆のグループを生んだ。たとえば、1919年の五・四運動はこのグループの仕事であった。また他方において、改良主義による中国社会の漸次改善を画策する民衆グループを生んだ。この漸次改善の思想の根拠は、清末の実業教育と中華民国初期の実利教育とにあると考えられるが、実際的にはアメリカの実用主義教育によって漸次改善の運動が促進された。新中国の国家づくりは、内部にこの種の対立した国家建設路線を含みながら進行していった。1925年、蒋介石(しょうかいせき)が国民革命軍総司令官となり、軍閥政府の時代がスタートした。この革命軍は、当初は中国共産党と提携して国づくりに励んだが、やがてたもとを分かつことになる。この革命軍の教育方針は、民族主義の実現、民権主義の発展、民生主義の深化であった。
[大谷光長・神山正弘]
1937年7月7日、盧溝橋(ろこうきょう)事件に端を発する日中戦争は、仲たがいしていた国民政府と中国共産党をして、徹底抗日のための統一戦線を実現せしめた。1945年8月の戦争終結までの8年間の戦乱は、中国の各地に深い傷跡を残した。
1946年1月「和平建国綱領」が公表され、識字教育の徹底、職業能力の高揚、教師の質的向上、ならびに子供の民主科学精神の育成などの具体方針が明らかにされた。しかし、国共両党の対立は日を追って深刻となり、1949年12月、ついに国民政府は台湾へ移動した。大陸では、毛沢東(もうたくとう)を指導者とする中華人民共和国の建設が始まった。1954年9月、憲法が制定された。
〔1〕憲法制定と教育 憲法の教育規定に以下の諸項目がみられる。人々の学習権を保障する。国家は学校などの教育機関を設立し、青少年の知力・体力の発達に配慮する。人々は、科学・文学・芸術、ならびにその他の文化活動を行う自由を保障される、などであった。1952年には全土の土地改革が終わり、1953年になると第一次五か年計画が始まり、人民政府の社会主義教育構想が発表された。そこには、科学技術の水準の引上げ、工業建設に必要な人材の養成、勤労大衆の物質的・文化的生活の保障と改良、ならびに少数民族の文化発展の促進などが盛り込まれていた。
1966年、文化大革命が始まった。知識一辺倒の教育、また立身出世主義的教育を粉砕する目的のもとで、大学入試制度の改革が問題とされ、中国全土は3年間にわたって激動に明け暮れた。学校教育の目的が、労働者・農民に奉仕する人材の育成にあることを再確認し、児童・生徒たちは工業や農業の生産の場で学習することが求められ、学校の管理・運営に、教育の専門家だけでなく、労働者・農民の参加が望ましいものとされた。その結果、一定の教育内容を組織的に学習することを無用視する態度を助長し、ひいては子供たちの学力を低下させてしまった。
〔2〕近代化路線での教育 10年に及んだ文化大革命後、1970年代末から国家政策の中心課題を、経済建設を中心とした現代化建設に移し、いわゆる「改革」「解放」政策が展開された。教育改革は、1985年に出された党中央「教育体制改革に関する決定」に基づき、
(1)9年制義務教育の実施
(2)職業技術教育の拡大
(3)経済改革に対応した高等教育改革
(4)分権化を基調とする行財政改革
などを柱に進められた。
1990年代に入ると、この政策はさらに加速化され、1993年2月、先の改革決定を踏まえた党中央・国務院の改革指針「中国の教育の改革・発展についての要綱」が発表され、私立学校、大学の設置、大学卒業者の就職自由化などの措置がとられている。
[大谷光長・神山正弘]
ロシアの教育は、1917年2月ツァーリ専制政体の崩壊、そしてブルジョア民主主義革命の誕生を境界線として、それ以前をロシア教育史、それ以後をソビエト教育史として、また、ソ連崩壊以降は現代ロシア教育として語ることができる。
[大谷光長・神山正弘]
10世紀ごろロシアはルーシとよばれた。ロシアという国名は14、15世紀ごろから史上に現れてくる。1613年ロマノフ王朝が始まり、以後300年間にわたってロシア帝国を支配したのである。
(1)18世紀前半の教育事情とピョートル大帝 18世紀の最初の25年間、ロシアは軍事・経済・文化・教育の各面にわたって近代化を進めた。ピョートル大帝の改革がこれである。1701年ピョートル大帝は学校設立に関する3勅令を発布、それによって実科学校がモスクワに設立された。また大帝は初等教育の普及にも熱心であって、1714年にロシア最初の義務教育令を公布した。そして1725年、科学アカデミーがペテルブルグに設立され、ロシアの科学・文化・教育のセンターとなった。
(2)18世紀後半の教育事情とエリザベータ女帝 大帝の死後、貴族の特権の拡張・強化が進み、もっぱら貴族と僧侶(そうりょ)の教育が普及した。また、陸軍貴族幼年学校、宗教学校などが閉鎖的な特権的中等学校として誕生した。1755年エリザベータはモスクワ大学設立の法令にサインした。そしてギムナジア(中学校)も開校されることになった。たてまえでは、農奴を除いたすべての希望者が受験できた。
18世紀後半のロシアは自由主義的雰囲気にあり、反封建思想の広がりや農奴制・専制政体に対する批判などがみられた。教育面では学校体系の確立、国民教育の組織化への動きが出てきた。1782年国民学校設置委員会が設立され、教員養成機関の設立とロシア帝国国民学校令の公布にあたったのである。
(3)19世紀の教育事情 1804年、大学管下の多種の教育機関に関する規程が公表され、ロシア帝国は6大学区に分けられることになった。各大学区は教区学校、郡学校、ギムナジア、大学の4階梯(かいてい)システムを整備した。1812年、ナポレオン指揮下のフランス軍隊がロシアに侵入し、やがて彼らは総退却するが、人々に戦争の勝利感と自由思想に対する関心とを抱かせた。そして、専制政体と農奴制を廃棄し、全国民の教育権を保障する新しいロシア国家の建設が想望されるまでになった。1861年の農奴解放宣言はこの気運をいっそう高めたが、それは一時的であり、また政府による弾圧の動きもあって、まもなく元の保守的路線に立ち戻った。学校教育も、この動きのなかで行きつ戻りつした。1864年の初等国民学校規程、ギムナジアおよびプロギムナジア(4年制の不完全中等教育機関で中学予備校)に関する規程で、あらゆる身分の子女が就学できるようになった。また、地方自治会(ゼムストボ)・団体・個人にも、国民学校を開設する権利が認められた。しかし、1870年代の政治的反動期になると、専制的学校政策が次々と断行されていった。
(4)革命前の教育事情 19世紀後半のロシアは、封建制の権力と資本主義の発達と労働運動の高揚との混在によって特徴づけられる。1895年レーニンは労働者階級解放闘争同盟を結成した。20世紀に入ると、ロシア帝国は世界経済恐慌に巻き込まれ、また日露戦争にも敗北した。政府抗議のため労働者は全国的に立ち上がった。1905年1月、125の企業がストライキに突入した。政府は、銃剣と、虚偽の改革を約束することとで、人民を懐柔した。革命は失敗に終わった。政府教育省は、革命を恐れて、とくに教員に対して厳しく規制を加えた。確かに第一次世界大戦は、戦争に勝つため階級闘争を一時停止させた。しかし戦争による国民生活の破綻(はたん)、つまりインフレ、消費物資の不足、食糧危機などの諸問題に対して、政府は適切な手を打とうとしなかったため、1915年、労働者はストライキを敢行した。この動きは、いわゆるロシア革命の二月革命、十月革命へとエスカレートした。
[大谷光長・神山正弘]
1917年ツァーリ専制は幕を閉じた。ブルジョア民主主義革命が、ロシア・プロレタリアートと、にわかに軍服をまとった農民との手で達成された。ソビエト政府の使命はブルジョア民主主義の啓蒙・実施にあった。
(1)革命後の教育改革 教育面で、学校改革が始まった。大学の新設および大学における自治の復活・拡大が着手され、また中等教育の再編が試みられた。そして、全ロシア教員組合が結成された。1917年4月24~25日(露暦。現在の暦では5月7~8日)ボリシェビキ党第7回全国協議会が開催され、クループスカヤが教育条項を草案した。10月25日(11月7日)レーニンの指揮下、ボリシェビキ党は武装蜂起(ほうき)し、世界最初のマルクス主義に基づく社会主義革命を成し遂げた。ソビエト新政権はまもなく「教育人民委員から」において、教育活動の一般的方向、教授学習と教育、教育者と社会などについて明確な路線を打ち出し、「生徒諸君へ」では、社会主義的学生のあり方を明らかにし、「教師の皆さんへ」においては、根本的社会改造および段階的社会主義化の必要と協力を訴えた。
(2)ソビエト教育の特色 1918年1月、全ロシア労働者・兵士・農民ソビエト第3回大会が開催された。この大会で、労農同盟を基礎とする革命グループによるソビエト最高権力機関が承認された。そのおり、統一労働学校令と基本原則が、また共産党綱領教育条項の改定が発表された。そして識字教育運動やピオネール(共産主義少年団)の運動が、教育運動として同意されたのである。1920年、レーニンは「青年同盟の任務」について演説した。彼は、人類の全文化遺産を学習して共産主義社会を建設すること、その遺産を書物からでなくて、生活・労働を通して学習することの必要を説いた。レーニンのこの問題提起は、その後のソ連の学校教育の発展に甚大な影響を与えた。1923年にはグース・プログラム(教授要目)が実施に移された。それは、学校教育の中心に労働を据え、労働と文化の接合点として学校を位置づけ、ひたすら実生活と教育との直接的結合を求めたものであった。
ソ連の国民教育は、子供の全面発達を目ざし、社会主義国家建設の路線のなかで、国民皆教育を念願とした。その念願から生まれたのが校外教育組織・機関の成立であり、コムソモール(共産主義青年同盟)やピオネールの組織化であった。1928年第一次五か年計画が始まった。ソ連の工業化・農業集団化が着実に進んだ。またそれと歩調をあわせて、義務教育が成果をあげ、総合技術教育がソ連の学校教育の基本原則となった。1934年になって、新しい国民教育制度が全連邦的規模で確立された。小学校(8~12歳)、不完全中学校(8~15歳)、完全中学校(8~18歳)がそれである。
(3)20世紀後半の教育事情 1941年ナチス・ドイツはソ連侵略に踏み切った。ソ連は戦争に勝った。しかしソ連の払った犠牲はまことに大きかった。1946年ソ連は復興を本格的に開始し、第四次五か年計画を実施した。1952年の第19回党大会は、社会主義から共産主義への移行の法則・条件を明らかにした。また、ソ連の学校教育の中心問題として、7年制義務教育の遂行、10年制義務教育への移行準備、中学校における総合技術教育の実施、共産主義的道徳教育の徹底、ならびに教授・訓育活動の質的向上などが同意された。1953年スターリンが死去し、フルシチョフ路線が発足した。総合技術教育の体系が明らかにされ、戦争被害者の子弟のための寄宿学校が設立された。1964年フルシチョフの解任、かわってブレジネフとコスイギンの集団指導体制が承認された。1973年国民教育基本法が制定された。それは前文、14章、65か条からなり、共産主義的人間像および道徳規範を明示している。また、総合技術教育の原則が再確認され、社会科の新設と労働科の特設が目をひく。
[大谷光長・神山正弘]
1991年12月のソ連崩壊後、ロシアでは国家の再構築が進むなか、国公立教育機関の脱共産党化を図るとともに、市場経済への移行に伴い、私学の設置など多様な教育への転換が進んでいる。従来の学校体系は維持されているが、リセ、ギムナジウム、カレッジなどの新しいタイプの学校の創設や、学位、資格の多元化が進んでいる。
[大谷光長・神山正弘]
インドネシアは多島国であって、大小合わせて1万7000の島々が点在する。そのなかで比較的大きな島は、スマトラ島、ジャワ島、ボルネオ島、スラウェシ島、ニューギニア島などである。これらの島々に1億7900万(1990)を超える人々が居住している。しかし、そこには、かつてヨーロッパ人と日本人によって土足で踏みつけられた苦い思い出が秘められている。インドネシアの教育は、この過去のインドネシアに対する他国の束縛と掣肘(せいちゅう)と侵略史とを知らずには、正確に理解することはできない。
[大谷光長・神山正弘]
1498年バスコ・ダ・ガマはインド航路の開拓に成功した。インドネシアは、当時のヨーロッパ人の生活必需品ともいえる香料(ニクズク、チョウジ、コショウなど)の産地であった。ヨーロッパ人はこのため、インド洋あるいは太平洋を渡ってインドネシアに来航するようになった。やがてポルトガルは香料貿易を独占した。一般に、ポルトガルに利のあることは、もともとインドネシアで暮らしてきた人々に不利益をもたらすことであった。というのは、彼らがそれまでに得ていた海上貿易の利が半減するからである。16世紀末になると、インドネシアにおけるポルトガルの勢力は衰え、オランダがポルトガルにかわることになる。1594年、数人のオランダ商人がアムステルダムにファン・フェルレ会社を創立、第1回航海および第2回の航海を敢行して巨額の利益を得た。1602年オランダは連合東インド会社を創立し、東洋航路貿易の独占権を手にした。この会社は、貿易による富の獲得だけに専念して、西洋文化・技術の普及にはまったく関心を示さなかった。そのことは、西洋式の学校設立に不熱心であったことからも理解される。
[大谷光長・神山正弘]
18世紀末、ヨーロッパにおけるフランスの台頭は、オランダに政変をよんだ。オランダのオラニエ家のウィレム5世はイギリスに亡命し、インドネシア問題についてイギリスに援助を請うた。1811年イギリス軍はインドネシア群島をその軍門に降(くだ)した。こうして、インドネシアにおけるイギリス東インド会社の統治時代が始まった。しかし、ナポレオンの失脚やオランダの独立回復などによって、1816年オランダはふたたびインドネシアをその支配下に置いた。
かつて、インドネシアではイスラム教の布教に伴って、学校らしい形のものが創立されていた。1575年、中部ジャワにマタラム・イスラム王国が誕生した。イスラム教はコーランの信仰を中心としていたこともあって、学校における主要な課業は、聖典コーランを子供にアラビア語で暗誦(あんしょう)させること、また大人の行動・習慣を子供に模倣させることにあった。たとえば、コーラン学校とプサントレンはイスラム教を教えた。プサントレンとは、主としてイスラム教に関する啓蒙書を教授する学校のことである。コーラン学校、プサントレンを含めてすべての学校は、王国の維持と発展のための新文化の導入および社会の安定に役だったといえる。しかし、西洋式の学校がなかったということは、インドネシア教育史における当時の学校教育の限界を暗示している。
[大谷光長・神山正弘]
1816年オランダの再支配後しばらくは、インドネシア教育はインドネシア人に関する限り無風地帯であった。1830年以後、インドネシアの多くの大都市に、ヨーロッパ人のための学校が設立されるようになり、1832年創立のジャワ学校はその代表的なものであった。しかし、原地の人々の子弟はその恩恵にあずかることはなかった。1848年になって初めてインドネシア人のための西洋式の学校が設立され、1848年から1852年の間に設立学校は15校を数え、師範学校も創立された。1870年になると、インドネシア植民地を自由主義の原理で開発しようとする気運が生じ、1882年までにおよそ700の学校と師範学校9校が設立されて、生徒数も増大してほぼ4万人を数えるまでになった。
[大谷光長・神山正弘]
20世紀に入ると、学校制度の改革が始まり、オランダ語が教科目として組み入れられ、修業年限も延長された第一級学校、都市の一般住民・賃金労働者を教育することを目的とする第二級学校、慈悲を基調とし、地方在住の一般大衆のための新しい学校である国民学校(村落学校)などが建設された。そして、村落学校に付設された継続学校、さらに第二級学校や村落学校の卒業生を西洋式学校に橋渡しをする連鎖学校の創立と続いた。また、インドネシア人のための中等教育・高等教育機関にしても、しだいにその体裁を整えていった。日本の高等学校に相当するミュロ学校や普通中学校が誕生し、バンドンに工科大学、バタビア(ジャカルタ)に法科大学・医科大学が建設された。しかし、第二次世界大戦はインドネシアの発展に大きな非運をもたらした。1942年、インドネシアはオランダの植民地から日本の占領地にかわり、軍政が敷かれた。徹底した同化政策の実施で、日本は、言語教育(日本語の強制普及)を中心とする6年制国民学校を普及させることに熱心であった。そして1945年8月、ようやくインドネシアは念願の独立の喜びの日を迎えた。
[大谷光長・神山正弘]
1945年6月1日、インドネシア人を構成メンバーとする「独立準備調査会」は、独立後の基本方針を打ち出した。いわゆるパンチャ・シラである。それはインドネシア建国の大原則を意味し、同時にまたインドネシア教育の基礎理念であった。すなわち、
(1)神聖なる全能の神の信仰
(2)人間性の尊重
(3)民族主義の高揚
(4)人民の主権の確立
(5)社会主義の発展
などである。
インドネシアは、憲法上の教育規程および教育基本法において、教育権と、学校選択の自由と、教育上の無制約性(ただし法規の各条項の規制は有効である)とをうたいあげ、識字教育の徹底と、民族意識の深化と、インドネシア統一の強化と、信仰の自由および宗教教育の重視の決意を明らかにした。また義務教育の徹底が、教育の重点目標とされた。
1969年以降、政府は5次にわたる国家発展のための五か年計画に基づいて、教育政策を遂行している。とりわけ、1974年に始まる第二次、1979年に始まる第三次の発展計画期間に、現在の初等学校の9割に当たる学校が建設された。また教員の雇用も増大し、1969年の32万人から、1992年には115万人へと3.6倍になった。この結果、初等学校就学率は1969年の41%から1993年の92%へと倍増している。
1994年から義務教育年限が3年延長され、初等学校と下級中等学校がその対象となった。これとともに、初等学校教員の養成課程も2年間の高等教育段階に引き上げられ、教育の質的向上を担保している。
教育行政はほかの行政と同様に中央集権化されており、初等中等教育機関の設置・管理は国の事務とされている。
[大谷光長・神山正弘]
1970年代から、日本をはじめ急速に工業化が進んでいるアジア諸国に対する産業競争力にかげりがみえはじめ、先行きの経済力に不安が広がりだした。そのため、新たな技術の開発に迫られ、教育戦略に国家予算を重点的に配分することが認められるようになった。そのきっかけをつくったのが、「優秀性(エクセレンス)の教育に関する全米委員会」の報告書『危機に立つ国家――教育改革の至上命令』(1983)である。この文書のなかで、アフリカ系アメリカ人や低所得者層など比較的教育の機会にめぐまれていない階層の子供に対する補償教育が、期待されたほどの経済効果を生んでいないことが統計の上からあきらかにされた。その一方では、言語教育など基礎能力の向上に直結する分野の科目の充実と、高度な才能をもった人材へのさらなる教育機会の継続が、今後どれだけの利益を国家にもたらすかが査定された。
1960年代のケネディ、ジョンソン両大統領の時代に、公民権拡大運動の盛りあがりを背景にして、これまで歴史的に不当な差別を強いられつづけてきた階層に対して、その代償として教育の機会を優遇していく積極策が、「アファーマティブ・アクションaffirmative action」の名のもとで推進された。大学に有色人種出身の受験生を優先的に受け入れていく特別枠は、白人受験生の側から、「不公平である」「逆差別である」という提訴を繰り返し受けながらも、多くの大学で正当な制度として定着してきた。また、白人居住地域の子供と黒人居住地域の子供を半数ずつ、同じ学校に強制的に通わせる「バス通学制度」(バッスィングbussing)も、多大な社会的コストを払いながらも続けられた。このような、社会全体の負担で維持されてきた制度も、共和党のレーガン政権の時期以降、個人の自由な教育選択の尊重と、経費節減などの理由で見直しを迫られた。
1990年代の民主党政権の時代になり、国家の財政が全般的に立ち直りをみせてきているにもかかわらず、教育財政は公共事業としての公立学校の充実に向けて投入されるよりも、教育を個人の判断で受けることを保障する新たな傾向に対して重点的に投入されてきている。「チャーター・スクール」とよばれる、親たちが共同で企画し地区の教育委員会が認可を出していくような私設の学校にも、条件つきで公費による助成がなされてきている。そうした公的助成は、もはや例外的な措置ではなく、これからの国家的な教育助成のモデルとして、1998年のクリントン大統領の教書で推奨されている。アメリカでは、学校は伝統的に「社会の平等化装置」として公共的性格が重要視されてきたが、その公共性を、個人の意思のレベルに立ち戻って再検討していく時点にさしかかっている。
[宮寺晃夫]
イギリスでは、もともと、教育は個人の責任と権限でなされるべきものとするボランタリズムの考え方が根強くある。それが、これまで教育行政の中央集権化を妨げ、各地方・地区の独自の方針に基づく多様な教育制度を許してきた。中央省庁のなかでも、教育担当部局の権限もそれほど大きなものではなかった。
しかし、1980年代に進められた一連の教育改革では、政府は各地方・地区を飛び越えて直接親の学校選択権に訴えかけ、それを国家の教育方針の中心に据えることによって、改革を強力に推進していった。どの学校に子供を通わせるかは、基本的に親の選択にゆだねられることとしたのである。義務教育学校に入学する段階から、親たちには、各地区の無償の公立校(ステイト・スクール)にするか、有料だが進学面で有利な私立校にするかの選択が、大幅に与えられることになった。そればかりでなく、学校の運営方針についても、親の参加を認めた学校理事会の権限が強化されてきている。多くの国有事業がつぎつぎに民営化(プライバタイゼーション)されてきているなかで、学校もまた、例外ではいられなくなってきているのである。
その一方で、イギリスの教育の歴史のうえで画期的なことであるが、これまで学校の教育課程の編成について「学校自治(スクール・オートノミー)」を大幅に認めてきた原則が改められ、国家的な基準がイングランドとウェールズに初めて導入された。それが「1988年教育法」に定められた「ナショナル・カリキュラム」と、その達成を7歳、11歳、14歳、16歳の各段階で評価する国家統一試験の「アタイメント・テスト」である。サッチャー保守党政権によるこれらの国家基準の導入については、各地区の教育当局(ローカル・エデュケーション・オーソリティー、略称LEA)、とりわけ、これまで多文化教育や反人種主義教育を推進するなど独自の教育方針を掲げてきたインナー・ロンドン地区教育当局(ILEA)から、強い抵抗が示されたが、ILEAの廃止を含めて「1988年教育法」は成立した。この教育法によって、各地区のLEAの支配から抜け出して、直接国家の指導方針に従い、財政援助を受ける学校も認められることになった。
ナショナル・カリキュラムでは、国語(英語)、数学、理科の中核科目と歴史、地理、技術、外国語、音楽、芸術、体育の基本科目が定められている。そこには、各教科の内容についての細かい規定は盛り込まれていないが、実質的には、アタイメント・テストの実施要綱によって、各学校の授業の運営は拘束されることになる。たとえば、国語(英語)の内容について顕著なのは、アタイメント・テストの要綱が改訂されるごとに、多様な種類の英語のあり方が認められていた段階から、標準英語が重視される段階へと移行していることである。このことに典型的に表われているように、多人種国家となったイギリスの社会を、教育内容に統一基準を設けることによって、再統合していこうとする政治的な意図がうかがえる。
また、慢性的な若年層の未就労問題にも、教育の側から取り組まざるをえなくなったため、1997年より、政府の教育担当部局は、「教育・雇用省Department for Education and Employment」に改組されている。
[宮寺晃夫]
フランスは、歴史的に文化の伝統を重んじ、言語をはじめとして自国の文化の継承と保存に熱心な国として知られてきた。そのフランスにも、イギリス、ドイツなどの他のヨーロッパ諸国と同じように、1960年代、1970年代の高度成長期に、イスラム系の外国人を中心とする大量の移民労働者が移り住むようになった。
1970年代なかばに、移民受け入れ禁止が決められたあとも、なお定住化している移民労働者について、彼らの子供たちの教育が問題として残った。移民子弟の教育に関する国の方針は、段階的に変化してきている。70年代には、この子供たちに、フランス語をはじめフランス文化の習得を集中的に促すことを目的にして、「入門学級」が設けられた。その後しだいに、移民子弟にも「違いへの権利」が認められるようになっていき、彼ら独自の文化が尊重されるようになり、「入門学級」への収容は強制されなくなっていった。
1980年代には、移民子弟についての理解そのものが変わり始め、彼らを特殊視する傾向が改められ、「言語的な文化環境にめぐまれない子供たち」として一般視されるようになった。こうした意識改革を生み出すことにはずみをつけたのが、ジョスパン文部大臣のもとで1989年に成立した「新教育基本法(ジョスパン法)」である。ジョスパン法では、異文化を尊重する教育の推進が定められたほか、「生徒に奉仕する学校」の名のもとで、学校の運営に対する生徒の参加に道が開かれた。
[宮寺晃夫]
ドイツでも、かつてトルコから大量に迎え入れた移民労働者との共存を模索する試みがなされてきており、ドイツ人の子弟とトルコ系住民の子弟が、互いに相手の言語を学びあうような学校をもつ州もでてきている。そうした異文化間教育の実施は、連邦共和国全体の方針としても確認されるようになってきており、1996年には、常設文部大臣会議において「学校における異文化間教育」が勧告されている。
[宮寺晃夫]
1984年(昭和59)に設立された臨時教育審議会(臨教審)での議論でも、当初「教育の自由化」の名のもとで、学校の経営に市場の競争原理をもちこみ、学校を、親(=消費者)によって選択されるべきであるという大胆な意見が、新保守主義(ニュー・ライト)の臨教審の委員から出された。この意見は臨教審の答申の基調にはならなかったが、その後1990年代における、通学区域制度の緩和や、教育行政の地方分権化などの新しい傾向が生まれるきっかけとなっている。また、生涯学習社会の到来とともに、教育の問題は、学校教育のなかだけで解決されるべきものでもなくなってきている。
日本を含めて、先進諸国は一斉に教育改革に取り組んできた。その動向には、二つの方向性がある。その一つは、教育を国家・社会のシステムのなかに機能的に位置づけていき、国家・社会の政治的、経済的な危機に対して、教育が長期的あるいは短期的に効率よく役割を果たしていくようにする方向性である。もう一つは、「公共の資源としての教育」の配分の仕方について、国家的な規制を最小限度にとどめて、個人の選択と学校間の競争にゆだねようとする方向性である。どちらの方向性についても、教育は今後いっそう、それ固有の価値の領域をどこに求めていけばよいのかが、問われることになるのは間違いない。
[宮寺晃夫]
『篠原助市著『理論的教育学』(1929・教育研究会)』▽『橋浦泰雄著『産育習俗語彙』(1930・母子愛育会)』▽『宮本常一著『家郷の訓』(1943・三国書房)』▽『宮原誠一著『教育と社会』(1949・金子書房)』▽『大藤ゆき著『児やらい』(1960・岩崎美術社)』▽『尾形裕康他著『日本教育史』(『教育学テキスト講座 第3』1961・御茶の水書房)』▽『宮坂哲文著『生活指導の基礎理論』(1962・誠信書房)』▽『中野光著『大正自由教育の研究』(1968・黎明書房)』▽『稲垣忠彦著『明治教授理論史研究』(1969・評論社)』▽『堀尾輝久著『現代教育の思想と構造』(1971・岩波書店)』▽『肥田野直他編『教育課程・総論』(『戦後日本の教育改革6』1971・東京大学出版会)』▽『小松周吉他著『近代教育史』(『増補版 教育学全集3』1975・小学館)』▽『大谷光長他著『教育原理』(『保育講座4』1978・医歯薬出版)』▽『竹内常一著『子どもの自分くずしと自分つくり』(『UP選書256』1987・東京大学出版会)』▽『大田尭著『教育研究の課題と方法』(1987・岩波書店)』▽『ポール・ラングラン著、波多野完治訳『生涯教育入門』第1部、第2部(1989、1990・全日本社会教育連合会)』▽『天野郁夫著『学歴の社会史――教育と日本の近代』(1992・新潮選書)』▽『宇沢弘文著『日本の教育を考える』(1998・岩波書店)』▽『R・ベネディクト著、長谷川松治訳『菊と刀』(社会思想社・現代教養文庫)』▽『兼子仁著『国民の教育権』(岩波新書)』▽『稲垣忠彦著『戦後教育を考える』(岩波新書)』▽『山住正己著『日本教育小史――近・現代』(岩波新書)』▽『コンスタンチーノフ著、勝田昌二他訳『世界教育史 第1巻』(1954・青銅社)』▽『篠原助市著『欧州教育思想史・改訂版』全2巻(1956・相模書房出版部)』▽『E・ケイ著、原田実訳『児童の世紀』(1960・玉川大学出版部)』▽『皇至道著『西洋教育史』(1962・玉川大学出版部)』▽『佐藤清太他著『東洋教育史』(『教育学テキスト講座 第4』1963・御茶の水書房)』▽『勝田守一著『能力と発達と学習』(1964・国土社)』▽『大浦猛著『実験主義教育思想の成立過程』(1965・刀江書店)』▽『R・S・ピーターズ著、三好信治・篠塚智訳『現代教育の倫理』(1971・黎明書房)』▽『I・カント著、伊勢田陽子訳『教育学講義』(1971・明治図書出版)』▽『R・F・メイジャー著、小野浩三監訳『教育目標と最終行動』(1974・産業行動研究所)』▽『アルベルティ著、前之園幸一郎・田辺敬子訳『イタリア・ルネッサンス期教育論』(1975・明治図書出版)』▽『柳久雄編『アメリカ教育史Ⅰ・Ⅱ』(『世界教育史大系17・18』1975、1976・講談社)』▽『戸田金一編『東南アジア教育史』(『世界教育史大系6』1976・講談社)』▽『M・ランゲフェルト著、岡田渥美・和田修二訳『続 教育と人間の省察』(1976・玉川大学出版部)』▽『プラトン著、山田潤二訳『国家・政治と教育』(1976・明治図書出版)』▽『長尾十三二編『ドイツ教育史Ⅰ・Ⅱ』(『世界教育史大系11・12』1977・講談社)』▽『池田貞雄編『ロシア・ソビエト教育史Ⅰ・Ⅱ』(『世界教育史大系15・16』1977・講談社)』▽『梅根悟監修『世界教育史大系12・ドイツ教育史Ⅱ』(1977・講談社)』▽『E・デュルケーム著、佐々木交賢訳『教育と社会学』(1979・誠信書房)』▽『P・アリエス著、杉山光信・杉山恵美子訳『<子供>の誕生――アンシャン・レジーム期の子供と家族生活』(1980・みすず書房)』▽『J・F・ヘルバルト著、三枝孝弘訳『一般教育学』(1981・明治図書出版)』▽『沖原豊編『世界の学校』(『現代教育学シリーズ 第10巻』1981・有信堂高文社)』▽『ペスタロッチ著、長尾十三二・福田弘訳『ゲルトルート児童教育法』(1983・明治図書出版)』▽『コメニウス著、鈴木秀勇訳『大教授学』(1986・明治図書出版)』▽『J・S・ブルーナー著、鈴木祥蔵・佐藤三郎訳『教育の過程』(1986・岩波書店)』▽『宮沢康人・森田伸子著『社会史のなかの子ども――アリエス以後の「家族と学校の近代」』(1988・新曜社)』▽『中内敏夫著『教育学第一歩』(1988・岩波書店)』▽『F・シュライエルマッハー著、梅根悟・梅根栄一訳『国家権力と教育』(1990・明治図書出版)』▽『マカレンコ全集刊行委員会編『マカレンコ全集』(1990・明治図書出版)』▽『長尾十三二著『西洋教育史』(1991・東京大学出版会)』▽『橋爪貞雄著『2000年のアメリカ――教育戦略その背景と批判』(1992・黎明書房)』▽『J・ウォルフォード、岩橋法雄訳『現代イギリス教育とプライヴァタイゼーション』(1993・法律文化社)』▽『小沢周三・影山昇・小沢滋子・今井重孝著『教育思想史』(『有斐閣Sシリーズ52』1993・有斐閣)』▽『山崎高哉著『ケルシェンシュタイナー教育学の特質と意義』(1993・玉川大学出版部)』▽『坂口ふみ著『<個>の誕生――キリスト教教義をつくった人びと』(1996・岩波書店)』▽『小野田正利著『教育参加と民主性』(1996・風間書房)』▽『原聰介編著『教育の本質と可能性』(1996・八千代出版)』▽『佐藤学著『教育方法学』(1996・岩波書店)』▽『天野正治編著『ドイツの異文化間教育』(1997・玉川大学出版部)』▽『藤井敏彦著『マカレンコ教育学の研究』(1997・大空社)』▽『坂倉裕治著『ルソーの教育思想』(1998・風間書房)』▽『山崎洋子著『ニイル「新教育」思想の研究』(1998・大空社)』▽『原聰介他編著『近代教育思想を読みなおす』(1999・新曜社)』▽『プラトン著、保勉訳『ソクラテスの弁明』(岩波文庫)』▽『プラトン著、藤沢令夫訳『メノン』『プロタゴラス』(岩波文庫)』▽『アリストテレス著、高田三郎訳『ニコマコス倫理学』上下(岩波文庫)』▽『J・J・ルソー著、今野一雄訳『エミール』上中下(岩波文庫)』▽『J・J・ルソー著、桑原武夫訳『社会契約論』(岩波文庫)』▽『ペスタロッチ著、長田新訳『隠者の夕暮』(岩波文庫)』▽『J・デューイ著、宮原誠一訳『学校と社会』(岩波文庫)』▽『堀尾輝久著『現代教育の思想と構造』(岩波書店・同時代ライブラリー)』
人間は歴史的に規定された社会的環境のなかで,意図的,無意図的なさまざまな刺激とその影響を受けて,成長し発達する存在である。教育とは,広義ではこれらの人間形成全体を指すが,狭義では一定の目的ないし志向のもとに,対象に対する意図的な働きかけを指す。この場合にも,次の世代への意図的働きかけにとどまらず,成人教育,生涯教育という言葉が示すように,同世代の,あるいは世代間の相互教育(集団的自己教育)を含んで使用される場合もあるが,より限定的には,先行世代の,次の世代(子ども,青年)に対する文化伝達と価値観形成のための意図的働きかけをいう。その教育には公的機関の関与のもとに,公費によって組織された公教育と,家庭ないしは私塾による私教育の形態がある。しかし,教育の公教育化は,近代以降一般的であり,今日では私立学校も,公教育の一環として位置づけられる場合が多い。
人間は教育によってその精神的,身体的可能性を開花させ,同時に社会の成員として必要な労働能力,社会的能力を身につける。教育なくしては個人の成長はなく,文化の伝達なくしては人類の持続と発展もありえない。教育の必要性(必然性)は人間の本性そのもののうちにある。スイスの動物学者ポルトマンAdolf Portmannのいうように,動物学的にみて,なお1年間母胎にとどまることがふさわしくさえみえる時期に生まれてくる人間の新生児は,母親を中心とする周囲の保護と教育(保育)なしには生存すら続けることができない。〈人間は弱いものとして生まれる〉(ルソー)。そして,まさしくその弱さこそ,発達の可能態であることを意味している。この可能性は,人間的な環境と文化的な条件のなかでのみ発現する。オオカミ少年や野生児の話が教えているように,人間は文化的,社会的環境のなかで,周囲からのさまざまな配慮によってはじめて一人前の人間になるのであり,もしこういう条件を欠けば,人間はその可能性の開花の機会を失ってしまう。たしかに,一面において,人間の子どもはオオカミの習性さえ模倣することができるという意味で,その適応能力の大きさを示してはいるが,しかし,この子が,人間の子どもとしての将来にわたる発達の可能性を失うことのほうが,ここではいっそう重要である。
これらの事例はまた,人間の発達には段階があり,たとえば象徴的機能の獲得の時期に,その段階での生理的成熟に見合った働きかけが行われないと,象徴的,言語的機能は将来にわたって失われること,ないしは,その能力のめざめにとって計りしれない負担を残すことを示している。発達とは可能性の選択による実現の過程であり,それは同時に,選択されなかった可能性が衰え失われていく過程である。そして教育とは,新生児に人間的環境を保障し,その人間の可能性の開花を保障する機能である。すくなくともそこに教育の始原があるといってよい。そして人間は,〈弱い子ども〉を育てていくために,家族はもとより,村落共同体をあげて子どもを育てるための手だてをつくしてきた。こうして教育の原型は育児にあり,人類と民族の育児の習俗のなかに,子どもの発達と教育についての知恵と技術は蓄積され,受けつがれてきている。その意味で育児の習俗は,人間の文化伝達の形態であると同時に,これ自体が人間の文化の重要なジャンルを構成しているといってよい。
この育児の過程を,社会の側からみればどのようにとらえられるのか。人類の歴史は,人間が労働を通して自然に働きかけて自然をかえ,このことを通して人間の能力を豊かにし,人間そのものをつくりあげてきた過程であり,この過程でくふうされた道具や技術は次の世代につたえられ,そこで新しい発見や技術が加わって,より豊かに発展させられてくる。この技術に人類とほかの動物を区別する文化の最初の形態があり,その伝達に,教育の原始形態があるといえる。文化の持続と再生産の過程は,同時に教育=学習の過程にほかならない。
この伝達=学習は,古くは子どもたちが農耕や狩猟の場に参加するなかで,直接的に,しかし〈勘〉や〈こつ〉としてつたえられ,中世のギルド制のもとでは,徒弟の修業期間を通してつたえられた。しかしこの伝達の形式は合理的なものではなく,限られた弟子への秘伝であり,勘やこつは師から〈盗む〉という言葉で表現される類のものであった。こうして,技術とその社会の慣習や規則を身につけた若者は,一人前としてその社会に迎えられる。このように〈人類の歴史とともに在り〉といわれる教育は,育児にはじまり,成年式(入社式,イニシエーション)に終わる時間の継起を含んで,社会の成員としての同質性,一体性をつくっていったのであり,それぞれの社会は子育ての習俗を豊かに,多様にもっているのである。
→育児 →一人前 →子ども →成年式
教育の原型としての育児の様式は,家族ないし共同体の変化のなかで推移し,生活と労働の形態の変化は,教育の形態を変化させる。生産力の一定のたかまりは,生産物とともに時間の剰余を生み出し,余暇を利用して文化を系統的に伝達していくための学校が生まれる。学校は,支配階級の教養の場として発生し,この流れは中世末期以降,大学およびそれへの準備課程としての中等教育を発展させた。そして17世紀における科学の発達を背景に,科学,技術は急速な発展を示し,そのことは従来の文化伝達の様式に変化をもたらした。技術が〈わざ〉として,属人的にその人に担われ,それを勘やこつによって伝達するという旧来の文化伝達の方式ではなく,理性と共通感覚の持主ならば,何びとにも分かちつたえることを可能とする教育技術への方法的自覚が生まれ,それとともに知識(科学)を分かちつたえることによって,ひとりひとりの内側に真理をつみ重ねるという意味での知育instructionの概念が生み出されてきた。近代はまた市民革命と人権思想を背景に〈子どもの発見〉と〈子どもの権利〉の思想が主張され,教育はそれ自体が人権の一つであるとともに,人権を内実あらしめるための条件でもあると考えられるようになった。〈子どもの発見〉とは,子どもの発達をうながす教育への着眼を含んでいる。それは,子どもの未成熟さに,完成したモデルに対する未完成さをではなく,おとなの予測をこえた発達の可能性を見いだし,さらに成長の過程それ自体に独自の価値を認めるものであった。そして子どもの発達を貫く自然(法則)を見抜くことによって,自然に従うものこそが,よく自然に命令できるというベーコン的方法の,人間的自然(人間性)への適用を通して,〈自然に即した教育〉が主張された。
さらに,子どもが発達の可能態として,まさにその点でおとなのそれから区別される〈子どもの権利〉とは,子どもが将来にわたってその可能性を開花させ,人間的に成長する権利であり,成長,発達の権利は,子どもの〈学習の権利〉が充足されるときはじめて現実的な意味をもつ。しかも,もしこの権利が充足されないと,成人してからの人権の行使や幸福追求の自由が有名無実になるという意味において,学習=教育への権利は,子どもの権利の中核であると同時に,基本的人権を実効あらしめるものであり,その意味でまさに基底的な人権だと考えられるにいたった。こうして,近代における科学と人権の思想こそは近代教育思想の中心をなすものとなり,学習は子どもの権利であり,科学の探究と真理の教育は国民の権利となった。そして,人権としての教育をすべての者に機会均等に保障するためには,公費による学校制度(公教育)の整備が不可欠であり,かつまた,そこでは思想・信教の自由の原則と抵触しないためには,公教育から宗教教育が除かれ(非宗教教育の原則),科学と実用的知識を中心とする学校となることが求められた。
しかし,現実の庶民の教育機関は,教会によって組織された教会学校での初歩的な読みreading,書きwriting,算reckoning(この三つをスリーアールズ3R'sという)とともに教理問答(カテキズム)を主とする宗教=道徳教育を中心とし,社会への同化と社会秩序維持のための手段として発展し,さらに資本主義の発展に伴い,工場法による児童労働への一定の保護規定と結びついて発展する。しかし,そこでの教育は,個人の可能性を引き出すeducereという意味での教育educationというよりは,既成の価値観を注入するという意味での教化=インドクトリネーションindoctrinationに近かった。ここでは子どもの発見とは,子どもの学校への囲込みに通じていた。そして,19世紀後半からヨーロッパ諸国では義務教育制度が確立し,さらに,中等教育の機会を国民に開く改革が進められて,国民の教育への機会が拡大されるとともに,学校制度は階梯組織ladder systemとして,社会的選別と社会的上昇の制度としての機能を付与されていった。そして政治的統合の手段ないしは経済的要請からくる人材配分機構へと教育制度を再編する動きが強まっていった。これに対して,教育制度を,すべて人間に開かれた公道highwayとし,とくに中等教育をすべての者に開く運動(secondary education for all)が広がるとともに,教育固有の価値と論理への着眼も広がり,教育の自律性を媒介としての民主的社会の形成に,教育が積極的な役割を果たすべきだ,という考えに基づく新教育運動も展開された。さらに人権と科学を基軸とする教育を,たんに思想としてではなく現実の教育に根づかせようとする動きが,第2次世界大戦をはさんで国際的に高まり今日にいたっている。
また,19世紀末から今日にかけて,子どもの発達についての科学的研究が急速に進み,観察や実験による知見の蓄積のなかで,教育という外からの働きかけは,子どもの内的成熟に規定されながら,しかしそれへの働きかけによって発達そのものを先導し,発達をうながすものとして両者を統一してとらえる視点が形成されてきた。教えることと引き出すことが一つの過程として意識されるなかで,教育educationと教授instructionの統一もまた可能になったといえる。
他方で,発達診断や,教育評価のための各種のテストが開発されるとともに,これが選別の手段として利用され,人権としての教育にとっては反価値的な機能を果たす危険性もあり,これに対する全面否定としての反発達論や脱学校論deschoolingも唱えられている。発達と教育の科学は,すべての人間の人間的成長,発達を保障するためにあることを忘れてはならない。
→学習権 →精神発達 →読み書き算盤(そろばん)
教育の二つの契機とこれらの展開の歴史がすでに示しているように,教育は,個人の発達にかかわると同時に社会の持続にかかわる。正確には,個人の発達=世代の交代(個人の誕生,成長,死)を媒介として,社会は持続し発展していく。教育という契機を媒介としてはじめて,個人と社会を,歴史の場において統一的にとらえることが可能となる。ところでその際,教育を,社会を更新するものとみるか,社会の維持という保守的役割に期待するかによって,教育観は分かれてくる。すでに,プラトンの,教育の社会革新的機能への着眼に対し,アリストテレスは,その保守性,社会持続の機能を強調した。近代以降においても,教育への期待は,その階級的利害と深く結びついて,その主張の力点を異にする。社会の変革期には,その変革を担う主人公の育成,変革のエートスの国民的規模での浸透が教育に期待されるが,他方,変革を好まない保守主義者たちは,教育を通して,若い世代を伝統につなぎ,社会の秩序の維持のために教育を動員しようとする。こうして,社会的階級的な対立は教育のあり方に反映し,社会的に組織された教育は争奪の対象となり,教育は,いかなる場合にも,客観的には一定の政治的機能を担うことも否定できない。政治と教育とは,政治が〈敵と味方の関係〉(C. シュミット)を前提としての支配=服従の関係を基本にするとすれば,教育は,人間的信頼を前提としての指導=被指導の関係として把握される。しかし現実には,教育が政治の侍女としての役割を果たし,教育は教化に変質する場合が多い。しかし,政治と教育の関係をたんに対抗的にとらえるのではなく,教育は高次の政治として主権者の自覚を育てるものとなり,政治が高次の教育として,支配の技術ではなく,人民主権を前提としての共和国respublicumの運営の技術となるとき,それを担う主権者人民の自己教育のあり方こそは,その新しい政治を内面的に規定するものとして,政治と教育の高次元での統一を可能とするものといえよう。そしてその統一は,教育的価値の自律性を保障する政治を求めている。
近代において,人間の尊厳の自覚のうえに人間を目的としてとらえるという人間観=教育観が成立する。そして,子どもの人間的成長にかかわる価値を,その成長をうながす文化内容や教育の方法を含めて,教育的価値としてとらえる志向もまた,子どもの発見と子どもの権利の思想と同時的に成立する。
発達をうながすための学習の指導としての教育は,文化価値の伝達を媒介として行われる。その際,文化伝達そのものが目的ではなく,このことを通じて(そしてこのことを通じてのみ,それは可能なのだが),科学的精神や創造的知性,あるいは人間的感性を開花させることにその目的がおかれる。そのうえ,おとなたちには既知である文化遺産の伝達,内在化の過程は,子どもにとってはつねに驚きや感動を伴う新しい発見の過程である。教育はこの発見の感動とともに,それを通して子どもたちの心に開かれる新しい世界をたいせつにするものでなければならない。その意味で,文化価値はそのまま教育的価値とはいえず,それは子どもや青年の人間的成長に役立つかぎりにおいて,そしてその文化財が子どもとの関係における存在形態をも含めて,教育的価値としてとらえなおされる。その意味において,教育的価値とは子どもの人間的成長をうながす内容および発達を統御するための方法と結びついた価値だといえよう。
そして,この教育的価値の視点こそは,教育の自律性の原理を内在的に保障するものだといえる。高次の政治とは,この教育的価値と教育の自律性の保障を含んではじめて可能となる。しかしまた,教育的価値の独自性は絶対的なものではない。教育が人間の可能性の全面的開花のためのものであり,その人間は歴史的社会的存在としての規定を受けているものとすれば,人間の生存と生活の基底そのものが豊かであり,社会的関係がその発達を保障するにふさわしいものでなければならない。このような環境,条件の支えのもとで,はじめて子ども,青年の可能性の開花をうながす教育は可能となる。社会の総がかりでの人間形成への自覚的参与と,そのなかでの専門家としての教師の独自な任務との有機的結合が,求められている。
さらに変動はげしい現代社会において,すべての人間がみずからの主人たり得るためには,教育は制度化された学校に閉じ込められるのではなく,あらゆる機会,あらゆる場所において(教育基本法2条),すなわち,その生涯を通して行われるべきことが求められている。
→学校 →教育学 →教師 →社会教育
執筆者:堀尾 輝久
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