生子村(読み)おいごむら

日本歴史地名大系 「生子村」の解説

生子村
おいごむら

[現在地名]猿島町生子

菅谷すげのや村の南に所在。西・北に鵠戸くぐいど(現在は水田)の枝ヤトが入込む。集落西端、鵠戸沼の枝ヤトに臨む万蔵院まんぞういん遺跡からは弥生土器片・石器が出土。戦国期には沓掛くつかけ地頭とみられる松本宗善の支配が及んだと考えられ、小字宗全そうぜんがある。また落民士帳(忍田家文書)によれば若狭・青木治郎左衛門・木村利兵衛・木村孫右衛門などの郷士が活動していた。江戸初期は下総関宿藩領で、慶長一七年(一六一二)の関東八州真言宗連判留書案(醍醐寺文書)に「幸嶋生子」、「寛文朱印留」に「生子村」とみえ、猿島郡上郷に属したが、享保一〇年(一七二五)飯沼新田いいぬましんでん開発の関係から天領となり、明治に至った。天保九年(一八三八)の猿島郡結城郡岡田郡五十二ケ村農間渡世書上帳(秋葉光夫文書)によると村高一三七七・一五石、人口七九五、家数一五二のうち一三三は農業専門、一九軒は農間渡世分で、居酒屋八、小間物荒物穀商売一、小間物三、茶商二、薪材木商二などで、茶商売の百姓利兵衛は安永八年(一七七九)から商売を続けている。


生子村
せいごむら

[現在地名]南淡町賀集生子かしゆうせいご

福井ふくい村の南東にある。慶安期(一六四八―五二)福井村の村民によって開かれて生子谷せいごだに村となり、のちに生子村と称した(味地草)。北は野田のた村・うちはら村、東は長原ながはら村と山野を境となす。新田北しんでんきた村を源流にする大日だいにち川が下流南西の福井村に流れる。賀集組に属した。


生子村
おぶすむら

[現在地名]五條市生子町

吉野川支流、丹生にう川流域に立地近世の初め丹原たんばら村の内。寛永一六年(一六三九)から元禄一五年(一七〇二)の間に丹原村から分離独立。領主は旗本根来氏(盛重系)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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