日本歴史地名大系 「生嶋庄」の解説
生嶋庄
いくしまのしよう
市域中央部にあった庄園。九条家領生嶋庄や京都長講堂領生嶋庄などがあるが、相互の関連は明確ではない。また鎌倉時代以降
九条家領生嶋庄は、源実国(頼光の孫)が開発した地で、実国四代の孫雅行が、康治元年(一一四二)に皇嘉門院聖子(藤原忠通の娘・崇徳天皇の中宮)に寄進し、年貢一〇〇石を備進することで忠通の下文を得たとされる(正応四年七月日「覚照重申状案」九条家文書)。皇嘉門院の所領はのちに弟九条兼実の子良通に譲与されていることから、当庄も同様の経過をたどったとも考えられるが、治承四年(一一八〇)に作成された皇嘉門院の所領処分状に当庄の名がみえないので(同年五月日「皇嘉門院惣処分状」同文書)、九条家領として成立するに至る詳しい経緯については一考を要する。承久二年(一二二〇)には五三町分の役夫工米勤仕を了承している(一〇月一五日「仲雅請文」民経記寛喜三年一〇月記紙背文書)。建長二年(一二五〇)九条道家は孫の忠家に譲与している(同年一一月「九条道家初度惣処分状」九条家文書)。鎌倉時代後期には本所の九条家が当庄の収公を図り、開発領主の子孫で預所職の覚照が手継案を携えて提訴し、正応二年(一二八九)に覚照の主張を認める裁定が下されているが、九条家は裁定を拒否し、さらに訴訟が繰返されていった(前掲正応四年七月日覚照重申状案など)。建武三年(一三三六)八月二四日の左大将家政所注進当知行地目録案(同文書)に当庄がみえ、南北朝時代においても引続き九条家領として領家職を保持していた。なお文永四年(一二六七)に生嶋庄
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報