日本歴史地名大系 「生桑村」の解説 生桑村いくわむら 三重県:四日市市中部地区生桑村[現在地名]四日市市生桑町・野田(のだ)二丁目・西伊倉(にしいぐら)町・伊倉三丁目・三重(みえ)三滝(みたき)川と海蔵(かいぞう)川の間に位置し、集落の西は丘陵。東は野田村。延暦二〇年(八〇一)一一月三日の多度神宮寺伽藍縁起資財帳(村山龍平氏蔵文書)に出る「三重郡六条五鍬柄里」の「五鍬柄」が「いくわ」に転訛したともいわれる。「神鳳鈔」には三重郡に外宮領の「長松御厨四石」と、朝明(あさけ)郡に内宮領「長松御厨八十丁、三十三石」がでる。朝明郡の長松(ながまつ)御厨は現別名(べつめい)付近に比定されるが(→長松御厨)、垂坂(たるさか)山の丘陵を隔てて生桑にも長松神社があり、江戸時代は神明社とも称されており、外宮領長松御厨の故地とも考えられる。 生桑村いくわむら 大分県:杵築市生桑村[現在地名]杵築市八坂(やさか)など宮原(みやばら)村の西方にあり、八坂川に接する。慶長五年(一六〇〇)は細川氏領、翌六年に日出藩領が設定されると、日出藩領・杵築藩領に二分割された。正保二年(一六四五)松平英親が杵築藩領主として入封の時、日出・杵築両藩境に幕府領が設置され、幕府領生桑村が設けられた。小倉藩元和人畜改帳では木付廻上八坂に属し、内野生桑村とみえ、高七二石余、家数四・人数一二(うち百姓四・名子一)、牛一。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by