用瀬宿(読み)もちがせしゆく

日本歴史地名大系 「用瀬宿」の解説

用瀬宿
もちがせしゆく

[現在地名]用瀬町用瀬

近世の智頭ちず街道宿駅鳥取城下から約四里半、智頭宿(現智頭町)まで約三里。池田光政時代から宿に指定されており、駅馬の飼料草は、用瀬かみ町分古用瀬ふるもちがせ村、用瀬中町分は別府べふ村、用瀬下町分は美成みなり村が負担することになっていたという(用瀬町誌)。光政に代わって池田光仲が鳥取城に入った寛永九年(一六三二)八月の制札場の書上(在方御定)智頭町などとともに「用ケ瀬村」もあげられている。一一月には藩の役人山本加介が当地を訪れ、駄賃銭や市日についての定を下しており(在方御法度)、一二月には先例により用瀬町庄屋五郎兵衛に米四俵が遣わされている(在方御定)。同一四年の駄賃銀宿賃書付(同書)によると当地から鳥取までの駄賃は二匁四分、智頭町までは一匁六分、宿賃は主人(馬とも)一二文・下人六文。正徳五年(一七一五)用瀬宿が扱う往来荷物や郡中から運び込まれた商荷物の運送が滞るという事態が起こり、藩から用瀬宿の馬で運びきれない荷は八上やかみ郡の馬に自由に運ばせ、荷が滞ることのないよう指示してきたにもかかわらず、八上郡の馬に運ばせずに高草たかくさ郡の馬を相対で雇入れてこういう事態を引起しているとして、定を厳守するよう注意を受けた(同書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報