用瀬村(読み)もちがせむら

日本歴史地名大系 「用瀬村」の解説

用瀬村
もちがせむら

[現在地名]用瀬町用瀬

現用瀬町北部の千代川東岸沿いに位置する智頭ちず街道の宿村。在郷町としても郡有数で、屋号に散岐屋・余戸屋・佐治屋など近隣の地名に由来するもののほか但馬屋・紀州屋・土佐屋・大津屋など他国名のものがみられた。南方、千代川西岸に古用瀬ふるもちがせ村があり、用瀬の地名は中世には同村を中心とした地名であったが、同地の松茸尾まつたけお城主用瀬備前守が天正八年(一五八〇)に没落。のちその子孫が当地に転住して新たに集落を開き、やがて当地が用瀬の名でよばれるようになったと伝える(因幡志)。元禄一四年(一七〇一)の変地其外相改目録(県立博物館蔵)に、正保国絵図正保郷帳には用瀬宿と載せたが元禄国絵図・元禄郷帳から用瀬村と改めたとある。元禄以前の諸史料には用瀬町と記したものもあり(「在方御定」など)、江戸時代を通じ用ヶ瀬とも書かれた。拝領高は一四六石余。本免六ツ七分。なお鳥取藩の斗代は上田から二斗下りと定められていたが、当村のみ上田と中田の差は一斗、下田と下々田の差は三斗となっていた(鳥取県史)。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「因幡誌」では高二五〇石。安政五年(一八五八)の村々生高竈数取調帳では生高二六一石余。

寛永九年(一六三二)宿駅として再整備され、また千代川舟運・筏流しの基地として筏師の賃金が一人につき一日七分と定められた(在方御定)。同一〇年の大庄屋給帳(県立博物館蔵)によると当村庄屋五郎兵衛が智頭町(現智頭町)の喜右衛門とともに智頭郡大庄屋を勤めている。給米は八俵。明暦二年(一六五六)許可を得た者以外の酒造が禁止されたが、因幡では五村八名のみが許され、当村では二名が免許を与えられた。許可条件のなかに酒請売・振売の禁止、五升以上の売買の禁止が含まれている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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