田原別符(読み)たわらべつぷ

日本歴史地名大系 「田原別符」の解説

田原別符
たわらべつぷ

大田おおた村全域に比定される。宇佐宮大宮司家を領家とし、宇佐宮御炊殿御供米を納める庄園で、宇佐宮根本神領常見名田として成立した。「宇佐大鏡」に田原別符とあり、天喜五年(一〇五七)紀季兼が開発、当初半不輸であったが、保元三年(一一五八)の検注では五九町七段三〇代が一円不輸領となっている。宇佐宮神領次第案(到津文書)によると以東新庄に属し、仁治二年(一二四一)の散田帳では一九名を擁するという。しかし豊後国弘安田代注進状・豊後国弘安図田帳には田原郷六〇町、うち本郷ほんごう四〇町と小野一万おのいちまん名一〇町とある。当別符は本方と新方に分けられ、戦国期の大友親治知行預ケ状(荒巻文書・田原達三郎文書)に田原本方二九町、田原村内新方一八町とみえる。この別符も永正一四年(一五一七)以降は田原庄などともみえるようになる(一二月二三日「大友親安知行預ケ状」野間音一文書)。史料上別符内の名として利行としゆき名・次松つぎまつ名・五郎丸ごろうまろ名・名・弥松やまつ諸田松武もろたまつたけ本松武ほんまつたけ弥久松やひさまつ名・沓懸くつかけ山香吉松やまがよしまつ岡次松おかつぎまつ松武吉松まつたけよしまつ石丸いしまる名・永松ながまつ(以上本方か)波多方はだかた(新方か)が確認できる。小野一万名は別名と考えられる。戦国期にはおか名・みね名・赤松あかまつ名・上野うえの名・皆口みなくち名・神田口かんだぐち名・さかみず名などもみえる。

寛元三年(一二四五)七月三日の大宮司宇佐公高切符案(永弘文書、以下断りのない限り同文書)によると、当別符の負担する宇佐宮御炊殿御供米は三〇石で、次松・弥松などの一〇名が負担し、最高は利行の一〇石八升、最低は是松の二升となっている(弘安一〇年一〇月田原別符御供米惣徴符)。寛元三年の供米三〇石は田原郡司に命じられたもので、弘安一〇年(一二八七)時点では郡司紀氏は開発領主として庄務に当たっていたものと考えられ、元応二年(一三二〇)まで確認される(一一月七日良舜奉書)。供米料所以下下宮社司職・番長職などは永弘氏の祖宮雄以来相伝されたものといい(貞和五年三月二二日永弘保範譲状)、暦応二年(一三三九)三月一〇日安堵された(左衛門尉高直奉書案)。供米は武士の違乱によりしだいに衰微し、享徳年中(一四五二―五五)には三〇石内当納二石余とみえ(御炊殿御菜免番長当知行坪付注文)、長禄二年(一四五八)五月二二日時点では「近代諸給人知行之間無沙汰」「近年無沙汰」となっていた(惣検校益永通輔注進状案など)。のち供米社納は復活するが、永正一五年は一石二斗五升、大永元年(一五二一)八斗五升、天文一〇年(一五四一)四斗九升三合、同一五年二斗六升四合・大豆八升、同一八年一斗七升五合・大豆一斗五升・小豆一斗三升と三〇石など従来とはかけ離れたものとなっている(田原別符社米当納分注文案など)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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