日本歴史地名大系 「田原別符」の解説
田原別符
たわらべつぷ
現
寛元三年(一二四五)七月三日の大宮司宇佐公高切符案(永弘文書、以下断りのない限り同文書)によると、当別符の負担する宇佐宮御炊殿御供米は三〇石で、次松・弥松などの一〇名が負担し、最高は利行の一〇石八升、最低は是松の二升となっている(弘安一〇年一〇月田原別符御供米惣徴符)。寛元三年の供米三〇石は田原郡司に命じられたもので、弘安一〇年(一二八七)時点では郡司紀氏は開発領主として庄務に当たっていたものと考えられ、元応二年(一三二〇)まで確認される(一一月七日良舜奉書)。供米料所以下下宮社司職・番長職などは永弘氏の祖宮雄以来相伝されたものといい(貞和五年三月二二日永弘保範譲状)、暦応二年(一三三九)三月一〇日安堵された(左衛門尉高直奉書案)。供米は武士の違乱によりしだいに衰微し、享徳年中(一四五二―五五)には三〇石内当納二石余とみえ(御炊殿御菜免番長当知行坪付注文)、長禄二年(一四五八)五月二二日時点では「近代諸給人知行之間無沙汰」「近年無沙汰」となっていた(惣検校益永通輔注進状案など)。のち供米社納は復活するが、永正一五年は一石二斗五升、大永元年(一五二一)八斗五升、天文一〇年(一五四一)四斗九升三合、同一五年二斗六升四合・大豆八升、同一八年一斗七升五合・大豆一斗五升・小豆一斗三升と三〇石など従来とはかけ離れたものとなっている(田原別符社米当納分注文案など)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報