日本歴史地名大系 「田原庄」の解説
田原庄
たわらのしよう
保延七年(一一四一)六月二三日の鳥羽院庁下文案(九条家文書、以下特記しないものは同文書)に「田原庄壱処事」とみえ、当庄はもと伊和氏先祖相伝の所領であった。播磨国の大掾であった伊和豊忠が、永祚元年(九八九)三月五日に外孫桑原為成に与えたという。のち大掾の頼忠が相伝して嫡子政頼に譲り、以後嫡子秋延・増運・行覚と相伝して数代を経過した。大治三年(一一二八)二月、行覚から鳥羽院の近臣源師行に譲られた。師行は一色別符であるとの国司庁宣を受けて開発に努めたが、保延七年鳥羽院に寄進して庄園化を図った。年貢として一八石一斗一升の油を紀伊国の熊野山に納め、預所職は師行の子孫が相伝することになっている。同下文案によると、庄域は神崎東郡
伊和氏は往古伊和大神を奉じて大きな勢力をもっていた、播磨土着の豪族伊和君の系譜を引く氏族と考えられている。「播磨国風土記」神前郡多駝里の条には伊和大神の説話が記されており、伊和氏がこの地域に関係していたことがわかる。桑原氏は播磨国の在庁官人として知られる。頼忠以後の伝領者を伊和氏とみる向きもあるが、文脈上これは桑原氏でしかありえない。桑原氏は田原の地を別名領主として支配していたものと考えられる。源師行は従姉妹が鳥羽天皇の中宮美福門院得子であることもあって、鳥羽院政下で勢力を極め院庁別当を勤めている。鳥羽院を本家と仰ぐことによって、所領の相伝を確実なものにしようとしたのである。のちに師行はこれを子息の時房に譲ったが(年月日未詳僧某譲状案)、時房が死去したため、承安元年(一一七一)一〇月二九日その妻室に譲ることにした(僧某置文案)。師行死後の同二年二月二八日に嫡子有房が確認の置文を作成しており、妻室の死去後は時房の娘に伝わることが予定されている(左少将有房置文案)。有房は後三条院の孫源有仁の実子で、師行の養子となっていた。
田原庄
たわらのしよう
田原庄
たわらのしよう
田原庄
たばらのしよう
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報