田庄(読み)かせだのしよう

日本歴史地名大系 「田庄」の解説

田庄
かせだのしよう

田庄・笠田庄とも書く。紀ノ川中流域右岸にある荘園。西を穴伏あなぶし(静川)が流れる。東は官省符かんしようふ庄、西は静川しずかわ庄・名手なて(現那賀郡那賀町)、南は志富田しぶた庄。延徳三年(一四九一)三月日付の田庄四至示注文(宝来山神社文書)に引用する寿永二年(一一八三)当時の四至は、「限東下居、限南大河、限西世山河前、限北四津谷葛木峯」であった。下居おりいは現佐野さやの通称折居おりいで、「続風土記」にひがし村・佐野村の小名とされ、大河は紀ノ川、世山は山、葛木峯は葛城(和泉)山脈のことである。これに従えばほぼ現笠田東かせだひがし・笠田中・萩原はぎはらくぼうつりやま高田たかだを含む。

久寿二年(一一五五)一〇月二〇日の坂上千澄田畠譲状(角田文衛氏所蔵)に「在紀伊国伊都郡竺田村」とみえ、長寛二年(一一六四)七月四日の太政官牒案(根来要書)にはじめて「笠田庄」がみえる。成立は久安三年(一一四七)頃で、領主は讃岐院(崇徳上皇)であったが、翌年には国司源季範によって収公されたと考えられる(前記太政官牒案)。平安時代末期には、京都蓮華王院が領主であったことが知られる(「吾妻鏡」文治二年八月二六日条)

寿永二年、当庄は山城神護寺領となった。これは神護寺の再興者である僧文覚が後白河上皇に働きかけて実現したものであった。文覚は、元暦二年(一一八五)正月一九日の僧文覚起請文(神護寺文書)において、その間の経緯を

<資料は省略されています>

と記す。


田庄
ほうだのしよう

現西脇市の中部・西部一帯に比定される庄園で、名称は「和名抄」の多可たか蔓田ほうだ郷を継承する。当初は鳥羽上皇創建の得長寿とくちようじゆ(現京都市左京区)が本家職、平頼盛が領家職を有していたが、のち久我家領となる。関係史料に庄内の津万つま郷・黒田くろだ郷・重国しげくに郷・しも郷がみえ、この四郷で構成されていたようである。寿永三年(一一八四)四月五日、源頼朝は後白河法皇から支配を任されていた平家没官領のうち、頼盛の旧領一七ヵ所を返還したが、このなかに這田庄がある(「源頼朝下文案」久我家文書、以下断りのない限り同文書)。文治二年(一一八六)六月二日に頼盛が死亡し、子息光盛が相続するが(「吾妻鏡」同年六月一八日条、寛喜元年六月日平光盛処分状案など)、この頃平家没官領の多くが駐留していた梶原景時の兵士(被官人ら)によって押領されており、「東這田庄」も播磨国の武士が押領している(「吾妻鏡」文治二年六月九日条)。承久の乱に際して光盛は京方にくみしなかったが、乱後に播磨国守護所使が這田庄に入部し、兵粮米を徴収した。承久三年(一二二一)八月二四日、鎌倉幕府はこれを停止し、兵粮米徴収は領家(光盛)が徴収するよう命じているが(関東下知状)、遵行されず、同四年四月五日、再度守護所の乱入が停止された(六波羅施行状)。寛喜元年(一二二九)光盛はその所領を七人の息女に譲り、這田庄は四女三条局へ渡された。得長寿院領と付記されている(前掲処分状案)。その後当庄は小坂禅尼に伝えられ(池大納言家領相伝系図)、さらに久我長通に相伝された(久我長通譲状)。元弘三年(一三三三)六月九日、後醍醐天皇は当庄を長通に安堵している(後醍醐天皇綸旨案)


田庄
こてだのしよう

射水いみず郡に位置した古代の奈良東大寺領庄園。庄名の田は、天平宝字三年(七五九)一一月一四日の東大寺越中国諸郡庄園総券(東南院文書)田村地、また同日付の射水郡田開田地図(正倉院蔵)田野地とみえ、当時の田積は総地一三〇町八段一九二歩、開田三四町一九二歩、未開九六町八段。田庄としては天平神護三年(七六七)二月一一日の民部省符案(東南院文書)にみえる。「」字は「俣」と別字なので、訓をマタとするのは適当でない。「類聚名義抄」は「」の正字を「」とし、同字をコテとするのによれば、コテダの読みが妥当であろう。なお一般にはクボタノショウともよばれる。前掲の総券と地図は、天平勝宝元年(七四九)に占定した野地の総地と開墾状況を伝え、総地は射水郡内で最大の規模をもつ。

開田地図によると、庄地は射水郡の七条から一〇条にかけて、七条田上里・田里・桜田里、八条新大葦原里・新葦原南里・新葦原里、九条上葦原南里・上葦原里、一〇条東葦原里・某里のうちに展開する。四至は東・西・北が公田(口分田)、南は礪波となみ郡と射水郡の境とされ、周辺には班田農民の耕地が広がっていた。


田庄
ひえだのしよう

「大乗院雑事記」の文明元年(一四六九)一二月四日条に「御室領稗田庄」とあり、稗田庄は現京都市右京区御室おむろ仁和にんな寺領荘園であった。同記文明一八年一二月九日条には「仏地院領(稗)田庄四十石米事」とみえる。また、同記長享元年(一四八七)一〇月二五日条には「禅勝方へ宇治籠二遣之、畏入云々、(稗)田庄事巨細仰之、又申入分、此御米事ハ本六十石、此内二十石ハ古市ニ自仏地院御給分、四十石ハ進上申分也、此外七石五斗高野山ニ上之、自御室御寄進米也、此六十石も同御寄進分ヲ、仏地院ヘ相伝申知行也、又信貴山ヘ三石五斗自御室御寄進也、合七十一石御室方算勘ニ立者也云々、御室御牛飼給分ハ去年三貫文渡之」とみえる。


田庄
ひえだのしよう

京都みやこ平野の西部、長峡ながお川中流域の現大字上稗田・下稗田一帯に比定される庄園。応永七年(一四〇〇)九月一一日の渋川満頼書下(佐田文書/熊本県史料 中世篇二)によると、宇都宮氏庶流の佐田親景が九州探題渋川満頼から稗田庄ほかを安堵されている。親景は永享七年(一四三五)に当庄を含む所領を嫡子盛景に譲与しているが(同年三月三日「佐田親景譲状」同上)、その譲文には鎌倉時代以来の本領であると記されている。康正元年(一四五五)には当庄領主は京都北野社宝成院(「北野神社引付」同年一一月一九日条/北野古記)。天文五年(一五三六)一一月一七日の大内氏奉行人連署奉書(北野神社文書/史料纂集)によれば、北野社領の「稗田村」に対し段銭の加増が免除されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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