田後村(読み)たじりむら

日本歴史地名大系 「田後村」の解説

田後村
たじりむら

[現在地名]岩美町田後

浦富うらどめ村西方の入江付近に位置する。同村の支村。天正年間(一五七三―九二)に三月頃から一〇月初旬頃まで毎年小屋掛けして漁をしていた石見国の漁師が文禄年間(一五九二―九六)移住して村が形成されたと伝える(「古語伝実録鈔」県立図書館蔵)田尻村とも記し(元禄九年銘薬師堂鰐口など)、田後浦とも称された(「御船手御定」など)。江戸時代初期に領内限り一村となっていたらしく、万治二年(一六五九)本村浦富村との示境が定められており(古語伝実録鈔)、享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「因幡誌」に一村として掲載され、高一石余、竈数八四とある。「因幡志」によれば家数二〇〇で、鱈・比目魚・鯛・・鮑・栄螺・若布・大心草を産した。安政五年(一八五八)の村々生高竈数取調帳には浦富村と併記され、生高は同村分と一括して記されるが、同村とは別に村役人を置くと注記されている。東部の支村白原しらはらには浦富村の給人鵜殿氏の山番人が居住した(因幡志)

ほとんどが漁業に従事し、同時に魚類の販売に関係したほか、一部の者は海運業を営んだ(古語伝実録鈔・「在方諸事控」など)。寛文一〇年(一六七〇)船数が増加したため藩に懇請して岩場を切砕して船着場を拡張(古語伝実録鈔)、嘉永年間(一八四八―五四)には一千両を投じて築堤が設けられた(岩美町誌)。漁業は鯛の延縄漁シイラ漬漁などの沖漁が中心であったが(古語伝実録鈔)、享保頃まではツノジ漁が盛んで、灯火用のツノジ油の製造が行われていた。ツノジ漁には船数に応じて運上が課されており、享保八年の運上油は後述する海難事故の直後であるため三斗であったが、同九年には九斗(漁船数一一)、同一一年・一二年には一石四斗四升(漁船数一三、うち大船一〇・釣小船三)上納が命ぜられている。


田後村
たじりむら

[現在地名]羽合町田後

水下みぞおち村の西、天神川右岸に位置し、北東は長瀬ながせ村。伯耆街道が通る。羽合平野に展開する水田地帯の西端にあたり、村名は田の果て、田尻に由来するとも伝え、田尻とも記された。南に接する清谷せいだに(現倉吉市)の出村として開発されたといわれる。天正八年(一五八〇)と推定される坪付注文(山田家古文書)に「河村郡羽合田内 越振遠江守給 売地共一 三百七拾石 田尻分 同郡同郷 越振大和守給 一 四拾石 田尻」とみえる。

元和四年(一六一八)一一月二六日の池田幸隆寄進状(伊勢古文書集)によれば、伊勢神宮領として田尻村のうち三〇〇石が寄進された。拝領高九三一石余。倉吉荒尾氏・山池池田氏、乾氏・岩越氏・隠岐氏・中村氏・山岡氏・井上氏の給地があった(給人所付帳)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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