田尻村
たじりむら
[現在地名]西区田尻・田尻一丁目・泉一―三丁目・周船寺一―二丁目・横浜三丁目
怡土郡周船寺村の北、瑞梅寺川が今津湾に入る河口部右岸にある。志摩郡に属し、南東は怡土郡徳永村、北は枝郷の今出村。東寄りを周船寺川がほぼ北流して今津湾に入る。貞和六年(一三五〇)一一月日の僧進瓊申状(勝福寺文書/南北朝遺文(九州編)三)に怡土庄内「志摩方田尻」とみえる。田尻の内には次郎丸名(同申状)、太郎丸名(嘉禄二年九月一五日「仁和寺御室庁下文」誓願寺文書/鎌倉遺文五)、四郎丸名(文和二年四月二九日「一色直氏宛行状」徳永文書/南北朝遺文(九州編)三)、能徳名、成里名などが含まれていた(年月日未詳「田尻村名寄」児玉
採集文書/筑前怡土荘史料(九州荘園史料叢書)など)。天文二年(一五三三)には田尻村次郎丸名五〇町のうち一〇町が大内氏から梅月八郎左衛門尉に宛行われた(同年九月一五日「宮内少輔某奉書」同上)。大内氏が志摩郡より退いたのちの同七年一一月五日には、能徳名内二反などを代官へ引渡す代りとして太郎丸名内与河下の五日田二反三丈などが、大友氏から是松兵庫助へ宛行われ(「臼杵親連知行預ケ状」同上)、同八年一二月三〇日には「田尻長福寺并免田四郎丸名内苅町八段」が玄喜に安堵された(「臼杵親連安堵状」同上)。
田尻村
たじりむら
[現在地名]高田町田尻・田浦・亀谷
岩津村の東、飯江川左岸域とその南の山間部一帯に広がる。三池郡に属する。中世の国人領主大蔵姓田尻氏の名字の地。文明―明応(一四六九―一五〇一)の間に大友政親から田尻遠江守(恒種)に三池郡・山門郡内三〇六町が宛行われた(一二月一三日「大友政親判物」田尻家文書/佐賀県史料集成七)。この内訳を示すとみられる年未詳一〇月一七日付田尻氏知行坪付(同上)には田尻四五町がみえる。その後田尻氏の本領として伝えられた(年月日欠「田尻鑑種本領村数等覚書」同上など)。しかし永正五年(一五〇八)一一月三日の大友義長袖判知行坪付(同上)などでは田尻は一二町となっている。
田尻村
たじりむら
[現在地名]日立市田尻町・滑川本町三―四丁目
東は海に臨み、西側は標高一五〇―二〇〇メートルの多賀山地丘陵で、東麓縁辺を岩城相馬街道が通る。南は滑川村。丘陵東麓と、そこから東に開ける海岸段丘面上に上の代遺跡・度志前遺跡・馬遊遺跡・大田尻遺跡や田尻浜古墳群など、縄文時代早期より古墳時代後期の遺跡が点在する。「日本後紀」の弘仁三年(八一二)一〇月癸丑条の三駅新設の記事にみえる「田後」を、「新編常陸国誌」では「今ノ田尻ナリ」としているが、田後は静村(現那珂郡瓜連町)の辺りとする説が有力である。
寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高に「田尻村」とある。
田尻村
たじりむら
[現在地名]周東町大字田尻
玖珂郡の西南端、西は中山村、東北は祖生村、東南は伊陸村(現柳井市)、南は熊毛郡塩田村(現大和町)。島田川の支流中山川・四割川の上流に位置する山村。岩国藩領で玖珂組に属した。
村名は慶長五年(一六〇〇)の検地帳に「新庄・田尻」とみえ、新庄村(現柳井市)の属村とされている。寛永三年(一六二六)の熊野帳には「田尻村中山共ニ」とあり、慶安四年(一六五一)の「御領分村一紙」で初めて単独で「田尻村 高三百九拾六石弐斗七升定」と記される。村名由来を「玖珂郡志」は「大田ノ尻ト云コト」と記す。
田尻村
たじりむら
[現在地名]田尻町田尻
現田尻町の西部寄りに位置し、東北本線田尻駅などがある町中心部から西約三キロ。南境を田尻川(本町川)が東南流し、同川が形成した自然堤防上と周辺低湿地からなる。東は沼辺・北牧目村、西は中目村、北は通木村、南対岸は中埣村(現小牛田町)。遠田郡・登米郡・栗原郡の各町場に至る道が集中する交通の要地。古川への道には聖橋、中埣への道には中埣橋が架けられていた。「日本後紀」弘仁三年(八一二)一〇月二八日条に「更建小田雄薩田後等三駅」とあり、田後駅は当地にあたると考えられている。
田尻村
たじりむら
[現在地名]一志町田尻
雲出川の支流波瀬川に沿う村で北に高野村、東は八太村に接する。初瀬表街道が村のなかを通じ西に井関村へ至る。古代の条里制の田尻条里遺構上にある。鎌倉時代の「神宮雑例集」に内宮領田尻御園の名がみえ、「神鳳鈔」には、「内宮田尻御薗二斗、六九(十二)月」とあり、神宮の三節祭に二斗を内宮へ供進した。天文一八年(一五四九)の田尻牛頭天王社棟札(「一志郡史」所収)の銘文には、一志郡円蔵庄田尻村とあり、田尻村が円蔵庄に属したことをうかがわせる。
田尻村
たじりむら
[現在地名]中津市田尻・田尻崎
大貞台地の先端が海中へ突き出た所に位置し、西は大新田村、南は是則村、北は周防灘。小倉藩元和人畜改帳では高一一九石余を三人に知行させ、家数一五(うち百姓七・名子二)・人数三一、牛六・馬五とある。元禄豊前国高帳では高二五一石余。中津藩御用所日記の延享二年(一七四五)条によれば、当村の半四郎が中津桜町・塩町で米三升ほどを売歩いていたのをとがめられ没収された。
田尻村
たじりむら
[現在地名]吹上町田尻
与倉村の西に位置し、南は中原村。小野川の中流域一帯である。中世は伊作庄に含まれ、庄内の田尻名が当地にあった。建長七年(一二五五)一二月二五日の関東下知状(島津他家文書)には田尻など三ヵ村は島津忠久の自名であったとみえ、承久三年(一二二一)に三ヵ村の公事と下司職を交換したという。その後、伊作庄をめぐって地頭・領家間で所務相論があったが、文保元年(一三一七)六月一七日に和与がなり、「木庭山」については田尻名・中里名内か伊与倉名内かを糾明し、領家への帰属が明らかになれば、領家方に去り渡すこと、田尻名については兼家耕作分の年貢米に未進があったならば完済し、下地は領家方に去り渡すと定められた(「伊作庄日置北郷領家雑掌地頭代和与状」島津家文書)。
田尻村
たじりむら
[現在地名]敦賀市田尻
越坂村の北、木ノ芽道より西北に入った西山山麓の斜面に立地。集落は南条・北条に分れる。ウロロキ峠を下って東浦の五幡浦に通ずる。中世は気比社領葉原保に属した。永正四年(一五〇七)一〇月二七日付朝倉貞景安堵状(武内家文書)に地名がみえる。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では新保村に含まれ、正保郷帳では田方一二二石余・畠方六石余。天和二年(一六八二)小浜藩領より鞠山藩領となる。享保一二年(一七二七)には庄屋弥太夫(持高二九石)、牛馬銀九匁、新山手銀四六匁、雉子札銀一匁、渋柿二斗代米一斗二升、夫役三分、夫米二俵余、馬足一二、牝馬一一、牛三、家数二七(うち高持一九・無高七・寺一)、人数一六九(敦賀郷方覚書)。
田尻村
たじりむら
[現在地名]和歌山市田尻
名草郡に属し、名草山(二二八・六メートル)の北麓、和田川沿いにあり、中島村の南東に位置する。中世は日前宮領田尻郷の地で、永仁三年(一二九五)の諸郷奉分田所当注文写(国立史料館蔵)によると同郷に百姓名六名・福重別納・別納福重分・当出作・預所名・刀禰公事料があり、除米のうちには本荷前・新荷前・弥荷前・臨時御祭饗料などがあった。同年の田尻郷検田取帳並検畠取帳(「日前・国懸神宮本紀大略」所引)に「田尻堂免」がみえる。
田尻村
たじりむら
[現在地名]国富町田尻
向高村の東に位置し、北は東流する本庄川を境に本庄村。天正一六年(一五八八)八月五日の日向国知行方目録に田尻四〇町とあり、豊臣秀吉から島津義弘に宛行われた。文禄五年(一五九六)一二月二日、伊集院幸侃は東郷源七郎に田尻村四一七石余を安堵している(「伊集院幸侃知行目録」樺山文書)。文禄年間頃の給地変更を示すものとして、大隅の禰寝氏は細川幽斎が島津領の検地を行った際に田尻村内の鶴之門・瀬之口門・内門・宮薗門などを没収したと伝えている(寛永一六年「鳥浜義辰・須美清盈連署覚書」禰寝文書など)。
田尻村
たじりむら
[現在地名]堀金村大字三田 田尻
烏川扇状地の扇端にあって、田多井の下に位置する。文献上の初見は、文禄年代(一五九二―九六)成立の筑摩安曇両郡郷村御朱印御高附で、「三百五拾八石五斗五合 田尻村」とある。深沢沿いの地字小倉田の地点に縄文式土器が出土。中世、田尻堰の開削によって開田が進められたものと思われる。
集落の一部が上堀金村の町村に接続する。この町村は中世末期の堀金氏の同心・被官の居住した屋敷町である。
田尻村
たじりむら
[現在地名]余目町提興屋
提興屋村の東にあり、東を南から北へ流れる最上川の自然堤防上にある。初め最上川対岸の飽海郡平田郷田尻組田尻村(のちに松山藩領竹田村、現同郡松山町)の内。寛永九年(一六三二)加藤忠広領に田尻村の川南分二一七石余(皆畑)が分与されて当村が成立したが、所属郡は変わらない(鶏肋編)。上余目の田尻村とも称された(「丸岡領村高」大泉紀年)。正保郷帳には櫛引郡のうちとして村名がみえる。支配領主の変遷は廿六木村と同じ。幕末まで村高に変化はないが、最上川の洪水による川欠け・砂埋が多く、天明八年(一七八八)には引高二〇六石余、高免五厘六毛、毛付免一ツ八厘三毛(「御案内手控」金子文書)。
田尻村
たじりむら
[現在地名]吉川町田尻
南は六万部村、北東は山方村、西は西野島村に接する。東方六角山に六角古城跡がある。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図に「御料所柿崎分田尻村 下」とみえ、本納三七石九斗・縄高七〇石二斗一升五合、家九軒・二三人とある。正保国絵図に村名がみえる。延宝七年(一六七九)の越州四郡高帳に「田尾村」として高一三四石五斗余とある。天和三年郷帳によれば高一七三石八斗余、同所新田高一八三石六斗余。宝永七年(一七一〇)頃のものと思われる宰浜村々高寄帳(明治大学刑事博物館蔵)に長林寺分として田方一反六畝余・畑方三反四畝余が記される。天明六年(一七八六)の水元山林絵図面并取替状(国立史料館蔵)によれば、当時は出雲崎代官所支配であった。
田尻村
たのしりむら
[現在地名]富山市田尻・田尻南・田尻西・田尻東
神通川下流左岸の河岸段丘上に位置し、西は寺島村、南は宮尾村、北は新川郡金山新村。婦負郡に属し、寛永一六年(一六三九)以降富山藩領。同一〇年の牛ヶ首用水管理約定書(牛ヶ首用水土地改良区蔵)に肝煎喜三郎の名がみえ、早くから開かれていた。正保郷帳では高三三二石余、田方一六町九反余・畑方五町二反余、新田高四六石余。元禄一一年(一六九八)の郷村高辻帳では高三一二石余。寛政二年(一七九〇)の高物成品々手鏡では古高四九四石余・定免五ツ二分五厘、定小物成一〇匁八厘。
田尻村
たじりむら
[現在地名]産山村田尻
北部は標高一〇〇〇メートルを超える山地で南に向かって低くなり、南部は高原状の地形をなす。山鹿川(玉来川)が村のほぼ中央を南流し、東は乙宮村、西は満願寺村(現南小国町)・手野村(現一の宮町)、南は平川村、北は豊後国直入郡白丹村(現大分県久住町)と接する。文安五年(一四四八)八月一八日の阿蘇社造営木屋勤仕人数番定(阿蘇家文書)に「瀬田彦六知行下田尻」とあり、文明一六年(一四八四)八月二八日の阿蘇十二社同霜宮最花米注文(同文書)には「一所しもたしり二百文 まめ一斗」とある。
田尻村
たじりむら
[現在地名]白鷹町横田尻
高玉村の北、最上川左岸に位置する。集落はおおよそ川沿いの東田尻、西方の西田尻の二つに分れる。近世初期の邑鑑に村名がみえ、高八九二石余、免三ツ四分、家数四〇(うち役家九、肝煎・小走二)・人数二二一、役木として漆・青苧をあげる。蒲生氏高目録帳では村柄は下、修正前の高は九三一石余。正保国絵図(秋田県立図書館蔵)や元禄一五年(一七〇二)の変地帳(上杉家文書)などでは枝村として九反田村をあげる。
田尻村
たじりむら
[現在地名]市川市田尻一―二丁目・同四―五丁目・鬼高四丁目
上妙典村の北東に位置する。同村から北東方に進んできた佐倉道は当地で東方に向きを変える。集落は同道に沿って街村を形成する。江戸時代には幕府領で推移(旧高旧領取調帳など)。寛文期(一六六一―七三)と推定される国絵図に村名がみえる。近世初頭から製塩を行っており、寛永六年(一六二九)の検地では塩浜永三四貫九八九文が課せられていた(「塩浜由来書」国立史料館蔵)。
田尻村
たじりむら
[現在地名]京北町大字細野 田尻
細川七ヵ村の一。細野川の支流田尻谷川の上流約二キロ、朝日峯北麓の山間に位置する。
古代は「和名抄」に記す池辺郷に属し、のち細川庄に含まれる。「守光公記」永正一二年(一五一五)八月六日条によれば、当地に禁裏御料小野山(現京都市北区)の枝関田尻役所が置かれていた(→小塩保)。
慶長七年(一六〇二)以後幕府領。その後細川の上村など四ヵ村とともに二条家領となるが、その時期は元禄元年(一六八八)以前と推定される。
田尻村
たじりむら
[現在地名]佐伯町田賀
王子川上流域に集落がある。東は土生村、西は加賀知田村。慶長一〇年(一六〇五)の備前国高物成帳(備陽記)に佐井木庄田尻村とある。寛永備前国絵図に村名がみえ高二七七石余。「備陽記」では田畠一九町余、家数五五・人数三二六、岡山城下京橋まで道程六里一三町、池三。天保年間の「磐梨郡三組手鑑」によれば、直高四五五石余、家老土倉四郎兵衛の給地。田高二一九石余・一二町三反余・物成一四九石余、畑高八五石余・六町二反余・物成四六石余、開田畑二反余・新開畑二一歩余、家数四九、うち丸山六・本村四五・山田一(数値が合わないが史料のまま)、すべて寺山村の本久寺檀家、人数一八九、牛二九、猟師鉄砲二、宮一(天神)、池三(守給一石余)、山一一町余、うち宮林一反・百姓自林六町八反余・入会野山四町余、笊振商人一。
田尻村
たじりむら
[現在地名]浜松市田尻町・卸本町
馬込川下流右岸に位置し、東は白羽村、西は法枝村、北は明神野村。松平忠頼領郷村帳では高五三石余、田二町一反余・畑六町八反余、同村新田三〇石・畑六町・同所野方五石余・同所小網ノ石二石・同所舟役五石余。慶長一五年(一六一〇)の水野重仲知行割帳には「たじり村」とみえ、高九五石余。領主の変遷は向宿村と同じ。延宝五年(一六七七)の浜松町村家数高間尺帳では家数三五、うち役家三二。
田尻村
たじりむら
[現在地名]大分市田尻
霊山の北麓にあり、東は光吉村、西は七瀬川を挟んで玉沢村。同山に発する田尻川が村内で七瀬川に合流する。正保郷帳に村名がみえ田高二八三石余・畑高八一石余、早田庄に所属。領主の変遷は宮崎村に同じ。幕府領時代の元禄一〇年(一六九七)年貢皆済目録(安藤家文書)によると、高三七一石余のうち六尺給米三斗七升余・蔵前入用銀五五匁七分。正徳二年(一七一二)日向延岡藩領になり、享保期(一七一六―三六)以降橋料米六斗八升を納めた。
田尻村
たじりむら
[現在地名]福野町田尻
東を山田川、西を大井川に限られ、北西は梅ヶ島村。山田野の末端にあたることから田の尻と称されたという。山田川対岸広安村からの城端道が村内を通る。元和五年(一六一九)の家高新帳では役家数一二。正保郷帳では高八三三石余、田方五二町余・畑方三町五反、新田高四八石余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印(田尻区有文書)では草高七三一石、免六ツ一歩、小物成は山役一三一匁、鮎川役九匁(うち五匁は出来)。天和二年(一六八二)の検地引高七四石などにより天保一〇年(一八三九)の高七二五石余(「高物成帳」菊池家文書)。
田尻村
たじりむら
[現在地名]焼津市田尻・すみれ台一―二丁目
木屋川を挟んで田尻北村・北新田村の南に位置し、南は栃山川を境に惣右衛門村、東は駿河湾に面する。志太郡に属し、中世には田尻郷とよばれた。寛永一二年(一六三五)の山西領水野監物知行渡村之帳に村名がみえ、高七八八石余、田中藩領。同一九年幕府領となる(同年田中領郷村高帳)。国立史料館本元禄郷帳では田中藩領で、以後幕末まで同藩領。元禄郷帳では高一千六六石余。旧高旧領取調帳では高一千一九石余、うち八幡社領一一石余。享保一一年(一七二六)の村明細帳(吾等の郷土)では家数一八一・人数九一九、社一・寺四、牛三五・馬六。
田尻村
たじりむら
[現在地名]能登島町田尻・百万石
能登島の北西端、七尾北湾に面した細長い入江の西岸に位置し、東岸は久木村。戦国後期頃の能登内浦村々給人注文写(諸橋文書)に「田尻」とみえ、誉田氏が給人であった。天正一三年(一五八五)六月一八日の免定写(当摩文書)には「とうり田の尻」と記され、免引は三ツ半。正保郷帳では久木村と一括して高付される。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では「田之尻村」と記され、高四七石、免五ツ、小物成は山役五五匁、鳥役一匁(出来)、網役二三匁・串海鼠役五匁、猟船櫂役一〇目(出来)、海鼠腸役一匁(三箇国高物成帳)。
田尻村
たじりむら
[現在地名]八幡町旭
吉田川左岸にあり、北上流は川佐村、南西下流は赤谷村。慶長郷帳に寺畑村とあり、高一六六石余。正保郷帳は田尻村とみえ、田方二四石余・畑方一〇五石余。同帳に寺田村、田方二石余・畑方三一石余も載るが、田尻村の枝郷か。「新撰美濃志」は、田尻村の項に「桑畑村は赤谷の東にありて、当村のうちなり」とする。宝暦六年(一七五六)の郡上郡村高覚帳(鈴木文書)では家数二六(水呑二)、年貢定米六二石余。
田尻村
たじりむら
[現在地名]福崎町西田原
西野々村の東に位置し、市川支流の雲津川下流域の低地帯に立地する。神東郡に属し、北は北野村。慶長国絵図に村名がみえる。正保郷帳では田方一七三石余・畑方六七石余、「野有」と注記される。文化七年(一八一〇)の村明細帳(田尻区有文書)によると高二九八石余、田方一二町四反余・畑方八町四反余。
田尻村
たじりむら
[現在地名]加賀市田尻町
小塩村の東に位置し、北は日本海に面する。村域東部をタンジリ川ともよばれる田尻川が北流、流域では平安時代末期から鎌倉時代初期の製鉄遺跡が確認されている。中世は京都北野社領福田庄のうち。大永年間(一五二一―二八)頃と推定される江沼郡長衆等宛書状案(北野松梅院文書)に「福田庄之内浜方」のうち「持宝寺分壱町四段事、百姓中違乱云々、但於田尻刀禰法祐分者、社納之由」とある。天文六年(一五三七)と推定される七月五日の松梅院禅慶書状(北野社家引付)によれば、北野社造営に伴う遷宮要脚の社納を同社領内の有力者に依頼したなかに田尻刀禰源七がいた。田尻刀禰法祐・田尻刀禰源七はいずれも当地名を姓とする長衆と思われる。
田尻村
たじりむら
[現在地名]中津村田尻
日高川の南岸に位置し、南は三佐村、北は日高川を隔てて小釜本村。東は鷲の川の上流、矢筈岳(八一〇・八メートル)を境に熊野川村(現美山村)。川沿いの段丘に人家が集まる。慶長検地高目録の「田尾村」が当村にあたると思われる。村高一二四石余、小物成八斗三升。延宝六年(一六七八)の「日高鑑」には田尻村とみえ、田畑一二町八反余で高一二六石余、家数四〇で内訳は本役四・半役六・無役二四・年寄二・庄屋一など、人数一六〇、牛一一、鉄砲六、御蔵一、山家同心二。
田尻村
たじりむら
[現在地名]福山市田尻町
水呑村の南に位置し、南は鞆に続く。西北に山を負い東南には海を控える半農半漁の村。当地にはかつて二三基にものぼる古墳があったが(沼隈郡誌)、現在ではそのほとんどが破壊され、わずかに二基が残る。中世には長和庄に含まれていたと考えられ、小字に別所がある。近世の村高は元和五年(一六一九)三〇五石余(備後国知行帳)、元禄一三年(一七〇〇)五八一石余(備前検地帳)。「福山志料」によれば反別五八町余、うち畠四四町。戸数二二一・人数一千一〇五、牛一二七、舟大小一二。
田尻村
たじりむら
[現在地名]浪江町田尻
東から西に高くなる台地にあり、南は小野田村、東は川添村。正保郷帳では田方一八石余・畑方二〇石余。元禄郷帳では高二五石余。寛永一六年(一六三九)の高五九石余、明暦二年(一六五六)の高五三石余(奥相志)。天明三年(一七八三)の家数一〇、嘉永元年(一八四八)の家数九(検地石高収納戸口等調)。文久元年(一八六一)には高六三石余、家数一四・人数一一三、馬一九、物産は擂鉢・壺類・繭糸(奥相志)。
田尻村
たじりむら
[現在地名]田辺市中芳養
芳養川流域、林村の西に位置する。西は日高郡熊岡村(現南部川村)などに接する。村の西端、郡境の芳養坂峠(現灰坂峠)から村の東を南流する芳養川に至り、そのあと南下する古道は熊野街道の脇道とされる。中世は芳養庄に含まれた。慶長六年(一六〇一)の浅野左衛門佐殿知行持高写(「万代記」所収)には「田尻村上下」とあり、村高三〇〇石。安政六年(一八五九)の家数人数牛馬数書上帳(田所文書)によると家数四九、うち役家一三・柄在家(無役家)三六。
田尻村
たのしりむら
[現在地名]砺波市林
水宮村の北東、旧中村川右岸にある。元和五年(一六一九)の家高新帳に田ノ尻村とあり、道明村組に属し役家数一。正保郷帳には田野尻村とあり高三八石余、田方二町余・畑方五反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高九一石・免三ツ八歩、小物成は鮎川役一匁(三箇国高物成帳)。役家数は延宝四年(一六七六)には一軒となり、村肝煎は小島村の肝煎長右衛門が兼帯した(「礪波郡村肝煎給米図り帳」川合家文書)。
田尻村
たじりむら
[現在地名]寺泊町田尻
町軽井村の南、西山丘陵先端の小さな谷沿いに発達した集落。信濃川岸にあるため町軽井村と同様に川欠けに悩まされ続けた。現在は安定した米作地となっている。元和六年(一六二〇)の長岡藩知行目録の貼紙には寛永七年(一六三〇)に幕府領と替地になったとあり、以来明治に至るまで長岡藩領。
田尻村
たのしりむら
[現在地名]野々市町田尻町
手取川扇状地北東部、郷用水の分流東川支流前川などの流域に位置し、東は堀内村。田ノ尻・田之尻とも記される。慶長四年(一五九九)の前田利家宛行状(小幡文書)に村名がみえ、知行高二二五俵が不破彦三に宛行われている。正保郷帳では堀内村と一括して高付される。寛文一〇年(一六七〇)の村御印による当村の高一〇三石、免五ツ(三箇国高物成帳)。
田尻村
たじりむら
[現在地名]可児市広見
伊川村の西にあり、伊香七ヵ村の一。寛永一八年(一六四一)に分知され中川勝宗領となった二五〇石分にあたり(正保郷帳)、天和元年(一六八一)に上知され、以後幕府領(文化四年村明細帳)。元禄郷帳に村名がみえる。文化七年(一八一〇)の村明細帳によれば田一六町七反余・畑二町五反余。
田尻村
たじりむら
[現在地名]香芝町大字田尻
関屋村西方、河内国境に所在。近世初期は関屋村の内。元禄郷帳に「関屋村之枝郷」と注記。関屋村からの分離独立の年代は不明だが、万治二年(一六五九)の西山七ケ村へ割申傍示境ノ覚(北今市区有文書)に村名がみえるからこれ以前のことであろう。廃藩置県まで郡山藩領。
享保九年(一七二四)の和州御領郷鑑(柳沢文庫)によると反別四町三畝二五歩、家数二一(本百姓一三、水呑八)、人数一四一(男六六、女七四、僧一)、宮市(巫女)一、牛六。
田尻村
たじりむら
[現在地名]美山町田尻
高田村の南、三万谷川(田尻川)が足羽川に注ぐ河口付近にある。福井藩領。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では南宇坂中郷(高一六〇二・五四一石)に含まれる。村名は正保郷帳にみえ、田方二一石余・畠方一八石余。
田尻村
たじりむら
[現在地名]広神村田尻
北は並柳新田、西は中村・山口村に続く。正保国絵図に「田野尻村」とあり、高二九石余。天和三年郷帳では高四〇石八斗余、ほかに同所新田高一九石五斗余がある。
田尻村
たじりむら
[現在地名]豊橋市岩田町
岩崎村の西、飯村の北に続く。近世を通じて吉田藩領。享保一〇年(一七二五)の二川宿助郷帳(橋良文庫蔵)によると、村高七二二石で、助郷高四八二石。
田尻村
たじりむら
[現在地名]立田村三和 田尻
東は小茂井村、西は木曾川に面し寛永元年(一六二四)開墾の立田新田中の一村。「徇行記」によれば、概高二五三石余は一円蔵入地で、田は八町九反九畝余、畑は二町六反三畝余。
田尻村
たじりむら
[現在地名]伊勢市田尻町
阿竹村の北方、勢田川の自然堤防上にある。伊勢神宮領で山田付属の村であった。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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