田辺村
たなべむら
[現在地名]田辺町大字田辺
東は河原村、西および西北は河内への街道と天津神川を境として薪村。
宝生院図書目録中の「弥勒経遊意」の奥書に、観応三年(一三五二)八月二三日に三論宗の沙門憲朝が山城国綴喜郡田辺郷でこの本を書写し終えたことがみえ、同年九月一六日にも田辺郷で大品経義疏を書写し終えたとある。
応永(一三九四―一四二八)頃、田辺は興福寺東院領で、「東院毎日雑々記」のなかに何度もみえるが、応永二年の条には「田辺夫賃上分奉幣紙二帖、軾三連進之」(三月二日)、「田辺夫賃九百文持参、座本、堤築事申之」(同二八日)、「田辺百姓上洛、農時分トテ日役事歎申之間、下向分免之」(五月一九日)、「田辺夏麦少事沙汰始之、座本分夫賃沙汰之」(六月一日)、「南池掃除、田辺夫人十人来了」(七月二〇日)、「田辺年貢沙汰之」(九月三日)、「自田辺、転読沙汰人給、自八幡催促之由馳申畢」(一二月二一日)、「竹松并六郎禰宜下田辺畢、転読沙汰人給、自八幡催促之間下畢」(同二二日)などとみえる。
田辺村
たんべむら
[現在地名]諏訪市湖南 田辺
大熊村の北東、宮川下流の平坦地に位置する。田部とも書かれる。田辺の発祥を語るものとしては、「諏訪郡諸村並旧蹟年代記」に「諺ニ茅野に一ツ家田部に四ツ家といふ」とあり、宮川の更に下流、現集落の北西方の字筆始に、四ッ谷社が現存する(「諏訪史蹟要項」湖南篇)。永禄一〇年(一五六七)の武田信玄寄進状(守矢文書)によれば、諏訪社上社の大政所領及び荒玉神事領として、田辺郷の内から神長官あてに寄進されている。元亀元年(一五七〇)九月の春芳代官年貢所済注文(同文書)に、
<資料は省略されています>
とある。天正一〇年(一五八二)の織田信長禁制案(武居文書)には
<資料は省略されています>
とある。
田辺村
たべむら
[現在地名]都城市豊満町
現市域の南東端に位置する。北境は萩原川を隔て上長飯村、北東は宮村(現三股町)。鰐塚山系北面の麓にあり、西部域は都城盆地の南東端にあたる平地、中央部を崩川が北流し萩原川に注いでいる。戦国期の北郷氏に関係する某坪付写(都城島津家文書)には、中郷西方の「北田辺門」の井手本・堀町・寺田などの計七反三〇がみえる。この「北田辺門」はあるいは当地かとも考えられるが、不詳。
寛文四年(一六六四)の諸県郡村高辻帳に田辺村とあり表高六〇九石余。表高を記す日向国覚書や天保郷帳にも同様に記されるが、都城島津家に残る慶長一七年(一六一二)・同二〇年、元和六年(一六二〇)、明暦元年(一六五五)の各知行目録に村名はみえず、中之郷村として一括されている(庄内地理志)。
田辺村
たべむら
[現在地名]田島町田部
田島村の南東、長野村の南西に位置し、阿賀川の支流水無川東岸の河岸段丘上の平坦地と斎藤山西麓の山地に立地。取水困難のうえ漏水しやすい地層のため水田は少なかったが、大正八年(一九一九)新堰が開削され約二八町が開田された。明治以後田部と改字された。根岸山に鴫山城の支城があった(「長沼系図」長沼家蔵)。城跡は確認されていないが、上中丸・下中丸の地名が残る。
田辺村
たなべむら
[現在地名]北勢町田辺
塩崎村の北、二之瀬川が田切川に合流する地点の北側、両河川に囲まれた所に位置する。「五鈴遺響」によると、員弁郡に田辺村が二村あるために(一村は現東員町中上)、区別して俗に「田部」と記すという。天明四年(一七八四)手控帳では「田部村」としている。中世、伊勢神宮領で、「外宮神領目録」に「田中御園五斗内 六月一斗九月二斗十二月二斗」と記されている所か(員弁雑志)。
田辺村
たなべむら
[現在地名]東灘区本山中町四丁目・本山北町三丁目・同六丁目・岡本一丁目・同五丁目・本山町田辺
岡本村の東、六甲山地南麓緩斜面の山麓寄りに立地する。永禄一二年(一五六九)一二月吉日の山路庄公事銭取納帳案(高井文書)には本庄村出作の項に「たなへノ弥二郎」がみえる。天正一一年(一五八三)八月一日の羽柴秀吉領知判物(久留島文書)によると、水野久右衛門に田辺村の高七四石余などを与えている。江戸時代の領主の変遷は郡家村と同じ。慶長国絵図に村名がみえ、高九一石余。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
Sponserd by 