町方騒動(読み)まちかたそうどう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「町方騒動」の意味・わかりやすい解説

町方騒動
まちかたそうどう

江戸時代に町人身分(工=職人、商人)に属する町方住民のうち、主として中下層民による闘争をいう。米価騰貴に起因した町方下層民の米一揆(こめいっき)=米騒動的性格を帯びた打毀(うちこわし)の形態をとった闘争が多い。事実、500件ほど起きた近世町方騒動の約半分は打毀である。1642年(寛永19)大坂の米騒動が早い例であるが、大坂町奉行(まちぶぎょう)所への訴願にとどまった。都市打毀としては1703年(元禄16)長崎での米買占めの米商打毀を初発として、1733年(享保18)享保(きょうほう)の飢饉(ききん)を契機に江戸などで米価騰貴による打毀が起きた。18世紀なかば、宝暦(ほうれき)~天明(てんめい)期(1751~89)には一揆・打毀の大高揚を迎えた。とくに1787年(天明7)の大激化期には江戸・大坂で大打毀が起きた。またこの時期には町政改革、町役人交代、町奉行の苛政(かせい)反対、御用金重課反対などを要求する町方騒動が起こり、中層町人を中心として惣町ぐるみで立ち上がった。

 天保(てんぽう)の飢饉による大塩平八郎の乱(1837=天保8)を頂点とする天保の高揚期を経て、幕末期に至ると都市打毀にも世直しが芽生え始めた。安政(あんせい)の開港以後、1860年代には、これまでの闘争の自然発生性、孤立分散性を克服し、都市・農村相互の急速な一揆の波及と広域化を可能にして、「日本国中惣一揆(そういっき)」といわしめた江戸幕府倒壊直前の慶応(けいおう)期(1865~68)の状況を生み、百姓一揆とともに幕府倒壊の原動力となった。

山田忠雄

『佐々木潤之介編『百姓一揆と打ちこわし』(『日本民衆の歴史4』1974・三省堂)』『青木美智男他編『一揆』全五巻(1981・東京大学出版会)』

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