もともとは,縁起直し,世の中の悪い状態を直すことを意味する語として,また地震,雷などを除ける呪(まじな)いの言葉として,17世紀末ごろから都市民の間で使われた言葉である。
1784年(天明4)3月24日,新番組の旗本佐野善左衛門政言(まさこと)が,江戸殿中で当時権勢並ぶ者がないといわれた田沼父子のうちの田沼意知(おきとも)に斬りつけ,これがもとで意知は3月26日に死に,意知の父意次(おきつぐ)も急速に権勢を弱め,86年老中を免職となり,翌87年に減封された。この政言の殿中での刃傷(にんじよう)は私憤によるものであったが,当時田沼政治に強い不満をもっており,とくに賄賂(わいろ)政治を不正であると考えるに至っていた江戸市民の強い関心を引いた。政言は4月に切腹を命ぜられ,浅草の徳本寺に葬られた。政言刃傷事件とたまたま期を同じくして江戸の米価が下落したこともあって,江戸市民は政言を〈世直し大明神〉と称し,その神号を書いた数十本の幟(のぼり)が徳本寺の墓地に立てられたという。
18世紀の半ばごろから,百姓一揆と並んで,商人,高利貸,地主の〈不正〉を追及して打毀(うちこわし)を伴う騒動が展開しはじめた。その騒動に,騒動の要求とはげしい打毀行動とを正当化するものとして,世直し大明神が登場した。その確実な例は,1811年(文化8)11月の豊後岡藩の騒動が最初と考えられる。それは,騒動勢が藩から譲歩をかちとったことを喜ぶとともに,団結を誓う象徴として〈四原世直大明神 総氏子 在中 町中〉と記した高札が立てられたものであった。ついで36年(天保7)の三河鴨騒動(加茂一揆)では,騒動は世直し大明神の現罰であるとする主張がなされたというが,これは渡辺政香の《鴨の騒立(さわだち)》だけにある記述で,確定しがたい。なお19世紀半ばまでは,騒動とは関係なく,世直し大明神が使われる場合も少なくなかった。寛政改革を行った松平定信が〈文武両道源世直〉と江戸市民から呼ばれたり,39年甲斐国で代官江川太郎左衛門が〈江川世直大明神〉という紙幟を立てられた,ということなどがその例である。
1863年(文久3)ごろから幕藩制国家の解体が決定的になり,大規模な騒動が各地で展開した。それらの騒動は71年(明治4)まで相次いだが,総称して世直し騒動という。中でも代表的な例は,68年上野国一円に展開した上州騒動であった。農兵隊の用金取立てから始まり,村役人,豪農商の〈不正〉利得追及,質地(しつち)証文・借金証文の破棄,質地・質物(しちもつ)の無償返還,米価引下げ,窮民救済などを要求したこの騒動は,豪農商や横浜商人に対するはげしい打毀運動であった。そして,その打毀行為と,豪農商に対する強請行為,騒動への農民の参加強制を正当化するものとして,世直し大明神が登場した。ついで,下野騒動でも,会津五郡騒動でも,その騒動の目的が世直しのためであることが要求書などに明記された。もはや老中や代官を世直し大明神とすることはなくなった。これら以外の騒動も,それがたとえ世直しを標榜(ひようぼう)せず,世直し大明神が登場しなくても,世直し騒動と総称された。それは騒動の要求などに明示されていなくても,騒動勢の内外に世直し観念が流れており,この騒動が世直しの行動であると考えられていたからである。
幕末期の民衆騒動に貫かれていた意識を,世直し意識という。それは世の中が大きく変わりつつあるという社会認識に基づいて,小生産者の自由に生活・発展できる社会を目ざしたものであった。したがって,小生産者の生産と生活を危機に陥らせていると考えた要素や社会関係に対しては,民衆は自力で制裁・解決しなくてはならないと考え,それがはげしい打毀行動となって現れた。しかしこの意識には,国家権力に対する批判・抵抗という視野が欠けており,その攻撃も地主,高利貸,商人,豪農など,民衆と直接の収奪関係にあるものを対象とした。こうして,現実の国家権力の問題を欠如したまま,ひたすらに小生産者への回帰・維持を目ざしたこの意識は,それ自体幻想的なものであったといわれる。だがこの意識に基づいた騒動は,幕藩制国家支配にとどめをさす歴史的意義をもった。幕府倒壊後,地主,商人,豪農を明治政府が再編し,民衆の前面に国家権力が登場してきたことによって,世直し意識は新たな反国家意識へと発展的に解消していった。それに基づく民衆運動も,地租改正反対,学制反対の一揆を経て,自由民権運動へと展開していった。
執筆者:佐々木 潤之介
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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幕末期の民衆の変革意識をいう。この語はもともと、都市民の間に縁起直しの意味で使われていたといわれる。1784年(天明4)若年寄(わかどしより)として権勢を振るっていた田沼意知(たぬまおきとも)が江戸城中で旗本佐野政言(さのまさこと)(善左衛門)に斬(き)りつけられる事件があり、江戸市民は佐野を世直し大明神といって祀(まつ)った。それは、ちょうどこのころ米価が下落したことと佐野の行動とを結び付けたものであった。こののち、文化(ぶんか)年間(1804~18)の豊後(ぶんご)大分の岡騒動に騒動・打毀(うちこわし)と結び付いて世直し大明神が登場、1836年(天保7)の三河鴨(みかわかも)騒動(加茂一揆(かもいっき))でも世直しが称されたという。維新期に入って、1866年(慶応2)から明治初年にかけての騒動・打毀は、とくに「世直し騒動」とよばれる。その典型例は上州騒動であり、これらの騒動・打毀は世直し大明神の神意によるものであって、打毀などの過激な行為は、この世直し大明神にかわって行う制裁行為であるとする論理が流れていた。そして、この世直しが目標としている世の中は、小生産者が、不当な支配や収奪を受けることなく、安定的に生産活動に携わり、生活を営めるような、小生産者の世界であった。この目標は、維新の時期においては著しく幻想的なものであり、世直し大明神という考え方もきわめて素朴なものであったが、その論理とそれに基づく激しい騒動・打毀の展開は、幕藩体制の崩壊を決定的にした。明治新政府のもとで、世直しは、政府を相手とする運動に変わったが、政府の騒動・打毀に対する徹底的弾圧と、新たな支配体制の実行とによって、世直しの考え方は体制的に否定されたが、しかしわずかに、民衆宗教の教理などに組み込まれ、継承されていった。
[佐々木潤之介]
『佐々木潤之介著『幕末社会論』(1969・塙書房)』▽『佐々木潤之介著『世直し』(岩波新書)』
幕末から明治初年にかけておきた民衆運動。百姓一揆との共通性を強調する立場は世直し一揆とよび,百姓一揆との異質性を強調する立場は世直し騒動とよぶことが多い。一揆と騒動の区別はむずかしいが,いわゆる世直し一揆が慶応年間から明治初年に高揚期をむかえたとすることに問題はない。世直しという言葉は世の中を改め新しい世にするとの意味で用いられるが,世直し一揆では世直しの時,世直しの事業という意味で用いられる。世直し大明神が登場し,貧窮者を放置したままの豪農・富裕商人・高利貸を懲らしめるために,世直し神の命令に従って神罰を行うという考えも現れた。一揆参加者については,労働力販売によって生活を維持ないし補充しなければならない「半プロレタリア層」を重視する立場があるが,貧しい百姓・没落した小作人・在郷町の店借層などの中下層民など,さまざまな階層が参加したとする立場もある。一揆の要求は金・穀物の供出,質地・質物の返還要求などの現実的要求から,窮民救済,上下無し(平等)まであった。1866年(慶応2)の世直し一揆・打ちこわしは全国に波及し,幕藩体制を大きく揺り動かした。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 (株)朝日新聞出版発行「とっさの日本語便利帳」とっさの日本語便利帳について 情報
…これは世直りの観念と揆(き)を一にしている。一方,大鯰が鯰男の姿となり,海の彼方から出現してきて金持ちの悪徳商人たちをたたきのめしている図もあり,これは〈世直し鯰〉として包括されている。〈世直り〉とか〈世直し〉という日本語は,江戸時代の初期にはすでに存在していたらしい。…
※「世直し」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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