番場村(読み)ばんばむら

日本歴史地名大系 「番場村」の解説

番場村
ばんばむら

[現在地名]米原町番場

米原村・うめはら村の東方に位置。南西摺針すりはり峠を越えてきた中山(古代の東山道、中世の東海道)が通る。当地は中世箕浦みのうら庄に属し、鎌倉時代から宿の機能を果していたが、慶長年間(一五九六―一六一五)米原湊が開かれ、米原から中山道に通ずる道路が開通した際、運輸の便を考えて宿場が少し北東に移動したため、それまでの番場は元番場または上番場と称するようになり(江左三郡録)、新しく宿場となった地域を下番場とよんだが、村としては一村で高付されていた。天正一九年(一五九一)四月の御蔵入目録(林文書)に馬場村とみえ高七八〇石余。慶長七年の検地帳(米原町町史編纂室蔵)では高五五七石余、反別四六町余。斗代は上田(一五町一反余)一石六斗五升、中田(九町三反余)が一石五斗、下田(三町四反余)が一石三斗、上畠(五町九反余)が一石、中畠(二町七反余)が八斗、屋敷(一町六反余)が一石。


番場村
ばんばむら

[現在地名]市原市番場

志藤永吉しとうながよし村の北に位置し、村田むらた川が流れる。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高二八〇石。元和三年(一六一七)知行宛行状に志東庄内番場村とあり、当村など五ヵ所二〇〇石が旗本加藤領。元禄郷帳では高二九三石余。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では高三〇五石余で家数三〇、幕府領と旗本本郷・中山・戸田領。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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